広島〝発祥〟もみじ饅頭だけじゃない? バウムクーヘン伝来100年 ゆかりの島がPR奮闘

「ウエルカム似島」の手作り体験で焼き上がったバウムクーヘン

 おやつや土産品として老若男女に愛される洋菓子「バウムクーヘン」。実は、1919年に広島県物産陳列館(現原爆ドーム)で開かれた展覧会で初めて日本に紹介されたと言われている。焼いたのは、広島湾に浮かぶ似島に収容されていたドイツ人捕虜だった。伝来から今年で100年。島では観光客が手軽に焼ける体験サービスを始めるなど、PRに奮闘している。(共同通信=渡辺清香)

 似島は広島港からフェリーで20分。面積約3・8平方キロの小さな島だ。日清戦争から第2次世界大戦終結まで帰還兵のための陸軍の検疫所が置かれ、今も当時の桟橋など遺構が残る。

 島の住民で郷土史に詳しい宮崎佳都夫さん(71)によると、検疫所の一角は捕虜収容所としても使われ、第1次世界大戦時にはドイツ人ら500人以上が暮らしたという。バウムクーヘンを日本に伝えたドイツ出身の菓子職人カール・ユーハイム氏(1886~1945年)もその1人だった。

カール・ユーハイム氏(ユーハイム提供)

 ユーハイム氏は20代で腕を買われ、ドイツの租借地だった中国の青島に渡り、09年に菓子店の経営を始めた。ところが、妻エリーゼと結婚した直後に第1次世界大戦が勃発。青島は日本軍の占領下となり、ユーハイム氏は捕虜として日本に連行され、収容所があった似島で3年間ほど過ごすことになった。

 抑留中も仲間を励ますためにバウムクーヘンを焼いていたユーハイム氏。日本人がその味を知ることになったのは、19年3月に広島県物産陳列館で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」でのこと。ドイツ人捕虜が美術・木工品など自国の技術を披露する催しで、バウムクーヘンはたちまち人気を博し、連日大盛況だったという。

バウムクーヘンが日本で初めて紹介された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」の目録のコピー。中央の筒のようなイラストがバウムクーヘン

 ユーハイム氏は20年に解放された後も日本に残ることを決意。エリーゼを青島から呼び寄せ、22年には横浜市内に日本で最初の店を開いた。しかし、翌年の関東大震災で店は倒壊し、さらに移り住んだ神戸市でも第2次世界大戦で空襲を受けるなど苦難を味わった。

 45年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。かつてユーハイム氏が暮らした検疫所は臨時の野戦病院となり、多くの負傷者が搬送されて亡くなった。ユーハイム氏もまた終戦前日の8月14日、息を引き取った。それでも、戦後になると強制送還先のドイツから戻ったエリーゼや関係者らによって店は再開。菓子メーカー「ユーハイム」へとつながっていく。

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 11月下旬、紅葉に色づく似島に降り立った。似島港の目の前には、バウムクーヘン日本伝来の地をアピールする看板。すぐ近くにある観光案内所「ウエルカム似島」を訪れると、地域おこし協力隊の小松健二さん(42)と住民の冨士野直治郎さん(77)が迎えてくれた。

似島港の近くにある看板と観光案内所「ウエルカム似島」=11月

 小松さんは4月、協力隊の活動拠点でもある案内所で、気軽にバウムクーヘン作りが楽しめるサービスを始めた。観光客の突然の来訪にも応じられるよう予約不要だ。もともと島には手作り体験ができる施設があったが、事前の申し込みや人手が必要だった。

 材料は小麦粉、卵、バター、砂糖のみ。ユーハイム社が受け継いできたレシピを参考にしたという。生地を巻き付ける木製の芯は、地元の大工が作ったものだ。小松さんの活動を支援し、島のポスターにも出演する冨士野さんが慣れた手つきで焼き始めると、ふんわり甘い香りが漂った。

 戦後、似島は埋め立てなどに使う砂利の採取運搬業が盛んだった。冨士野さんも18歳から船に乗っていたといい、「高度経済成長期はあちこち建設ラッシュ。東京湾まで何べんも往復したんよ」「似島の船は採ってすぐ運べるから重宝されてね」…。そんな話を聞きながら、1時間。直径12センチほどのバウムクーヘンが焼き上がった。

観光案内所「ウエルカム似島」で、バウムクーヘンを焼く冨士野直治郎さん=11月

 「小さい子どもたちが暇を持て余すこともあるけど、焼きたては初めて食べたと好評ですよ」と小松さん。「島でゆっくり時間を過ごせる場所を提供したかった」という小松さんの思いが届いたのか、バウムクーヘンを焼くために家族や友人と再訪してくれた客もいるという。

 似島には富士山に形が似ていることから「安芸小富士」(標高278メートル)と呼ばれる山での登山やハイキング、釣りなどを目的に観光客が訪れるが、飲食店や宿泊施設は少ない。島の人口は800人を下回り、高齢化も進む。

 小松さんは「バウムクーヘンは多くの人に島の魅力を知ってもらうきっかけになる。観光が新しい産業になり、若い人の移住につながるよう力を入れていきたい」と話している。

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