スター・ウォーズはおとぎ話か神話か? 『スター・ウォーズ 善と悪の哲学』を読めば人生の問題や社会の問題が違った形で見えてくる!

『スター・ウォーズ 善と悪の哲学』が2019年12月18日より全国の書店・オンライン書店等で発売となる。

2019年12月20日に日本でも映画「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」が公開される。 ファンには待ちに待った瞬間だ。 なぜスター・ウォーズはここまで世界中の人たちを惹きつけ、 たかが映画とやり過ごすことができないほどの影響力をもっているのだろうか。 本書は気鋭のフランス人哲学者ジル・ヴェルヴィッシュ氏が、 哲学を切り口にスターウォーズの魅力を紐解く意欲作である。

スター・ウォーズは文化や記憶として共有されているだけではなく、 もはや無意識レベルにまで深く浸透している。 徹底的に娯楽作品だからこそ、 ここまで幅広い層の人気を得ることになったのだ。 だが、 スター・ウォーズは見かけほど単純なものではなく、 ジョージ・ルーカス自身も決して無教養の人ではない。 ルーカスが神話学者ジョゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』を参考にしたことはすでに知られているし、 スター・ウォーズが神話をベースにしていることを指摘する本も多数刊行されている。

精神分析学的な観点についても同様である。 そもそもジョゼフ・キャンベルには心理学者カール・ユングの影響が色濃く見られるし、 ルーカスも心理学者ブルーノ・ベッテルハイムの著書『昔話の魔力』を読んでいる。 ルーカスの読書体験が、 そのまま作品に生かされたわけではないという反論もあるだろう。 だが、 彼は自分で言うほどカウボーイや海賊が登場する娯楽映画だけで育ってきたわけではなく、 彼の文化的教養があってこそスター・ウォーズは生まれたのだ。

スター・ウォーズは「遠い昔、 はるかかなたの銀河系で」という驚くべき言葉で始まる。 人々はある種のスペース・オペラやSF映画を期待する。 テクノロジーが発達し、 ロボットが普及した未来の話だろうと思う。 だがブルーノ・ベッテルハイムによると、 昔話が「むかし、 むかし」「むかしある国になどの言葉で始まるのは、 おとぎ話の冒頭で子供たちにそれが架空の非日常の物語であること、 「ずっと昔人が願い事をすれば、 たとえ山は動かせなくても人の運命は変えることができると信じられていた頃のことだと意識させるためなのだ。

ベッテルハイムによれば、 おとぎ話は子供の潜在意識に作用して、 子供自身の問題を解決し、 エディプス・コンプレックスをはじめとする心理的な葛藤を乗り越えて大人になる準備をうながすものであるという。 同じことがスター・ウォーズにもいえる。 ダース・ベイダーの存在は、 オイディプスの父殺しを思わせる。 いやスター・ウォーズそのものが、 現代の神話なのだ。

ドイツの哲学者であり思想家のハンナ・アーレントは、 きっとスター・ウォーズを評価しなかっただろうが、 スター・ウォーズの哲学とは何だろう。 スター・ウォーズの神話的や精神分析的な解釈は無視できないものであるが、 本書の目的はそこにはない。 ここでとりあげるのは哲学である。 登場人物や、 誰もが知っている名場面や名台詞をもとに哲学的な命題を考えてみよう。

たとえば、 ヨーダはどうやってドゥークー伯爵に対峙したのか。 グリーヴァス将軍がずっと咳をしているのはなぜなのか。 こうした問いについて考えることは、 「人間は自由なのか、 与えられた宿命を生きているだけなのか」という哲学の古典的命題に向き合うことでもある。 宗教はなくなるのか。 技術の発展を恐れるべきなのか。 たとえば「私は誰」という問いも哲学的な命題である。

スター・ウォーズのなかには「私はお前の父だ」という答えが用意されているが、 まずはここからスター・ウォーズを題材に哲学の世界に踏み込んでいこう。 あのシーン、 覚えているだろうか。 ルークは、 そしてアナキンは、 そのときどうしただろうか。 ヨーダやオビ・ワン=ケノービの言葉を思い出してみてほしい。 デカルトやニーチェ、 スピノザも同じようなことを言っているのだ。

ハンナ・アーレントはポップ哲学を軽蔑したかもしれないが、 「ストームトルーパーにトイレの設置工事ができるか」という問いについても本気で考えてみよう。 スター・ウォーズ「で」哲学するだけではなく、 スター・ウォーズ「の」哲学、 ジョージ・ルーカスの思想もまたそこには当然、 浮かび上がってくるはずだ。

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