【くまもと五輪物語】江里口匡史(下)無念の故障、29歳で引退 追い求めた「最高の走り」

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熊本の小学生に走り方のこつを教える江里口匡史=2019年8月、熊本市東区
現役最後のレースでフィニッシュする江里口匡史(中央)=2018年7月、熊本市東区のえがお健康スタジアム(小野宏明)

 ロンドン五輪翌年の2013年。山県亮太(セイコー)や桐生祥秀(日本生命)ら若手が台頭する中、江里口匡史(30)=鹿本高出、大阪ガス=は日本選手権男子100メートルの5連覇と国体3連覇を逃した。ただ、本人は充実したシーズンだったと振り返る。

 「競技人生で最もレースをこなした1年。単身で欧州を転戦した。それまでは狙ったレースにピンポイントで出場していた。新しい刺激だったし、海外でシーズンベストも出した。ロンドンで力を発揮できなかった分、苦手意識を克服できた気がした」

 ところが、14年に歯車が狂い始める。シーズン初めのけがで調整が整わず、前年に続き日本選手権の優勝を逃した。世界リレーも結果が出ず、秋には脳脊髄膜炎を患った。

 「遠征疲れもあったのか、大会に調子を合わせられなかった。ただ、練習では10秒1を平均して出せる感触があった。体重を増やして出力を上げ、レベルアップさせるイメージはできていた」

 身長170センチと小柄なわりに大きなストライド。序盤から滑らかに加速するうまさと競り合いの強さ。それが江里口の武器だった。地面をたたくように走るフォームは速さを生み出したが、弱点もあった。指導した朝原宣治(大阪ガス)は「このフォームは足に大きな衝撃がかかる」と指摘する。15年春、江里口の左足を激しい痛みが襲った。

 「その年は春から調子が良かった。代表合宿では桐生君と互角に走っていた。痛みはあったけど、秋には復帰できると思っていた」

 左足甲の舟状骨の疲労骨折だった。大学時代にも右足の同じ部分を骨折。復帰に4カ月かかった。その時より治りは遅く、15年夏には選手生命をかけてプレートを埋め込む手術を受けた。しかし痛みはひかず、歩くことさえままならなかった。

 「走ってみたら、やっぱり痛かった。これがずっと続いた。つらくて、この頃の記憶はほとんどない。16年には熊本地震があった。古里を元気づけるために走りたいのに、走れなかった。リオ五輪は挑戦すらしていない。テレビもほとんど見なかった」

 リオ五輪後も痛みに付き合いながら、復活を目指した。東京五輪まで現役という目標があったからだ。しかし、17年3月に左足の同じ部分を再び骨折。1年後、29歳で迎えた地元熊本の大会でスパイクを脱いだ。

 「この体で日本一になったし、五輪にも出た。いろんな経験ができたが、心残りはある。20代半ばまでしか走れなかったから。もっと走って、自分の体と会話したかった。自分の可能性は自分で感じていた。五輪は世界最高の舞台。そこで最高の走りをするのが夢だった」

 今年8月、熊本市東区のえがお健康スタジアムに、少年らを指導する江里口の姿があった。現役時代に比べると、その表情は柔らかかった。

 「走ることに嫌な気持ちを持つかなと思い、一時期は陸上と距離を置いた。けれども、こうして子どもたちと走るとやっぱり楽しい。今は『走る』を見つめ直している。でも、やっぱり東京五輪には出たかったな」

<取材後記>届かなくても「敗れざる者」 「切れそうな細い糸をつないでくれた」。朝原さんは江里口さんを、そうねぎらう。朝原さん、伊東浩司さん、末續慎吾さんに続き、「9秒台」の期待を一身に受けた日本のエースだからだ。脚光を浴びたロンドン五輪までより、もがき苦しんだその後に、走ることに対する江里口さんのこだわりを感じる。桐生選手ら3人が9秒台を実現させた日本陸上界の躍進は、かつてのエースたちの苦悩が礎になっている。夢に届かなくても、江里口さんは「敗れざる者」だ。(高橋俊啓)

(2019年12月13日付 熊本日日新聞朝刊掲載)