ニューミュージックと歌謡曲の融合、西城秀樹とオフコースの接点は? 1980年 12月16日 西城秀樹のシングル「眠れぬ夜」がリリースされた日

衰えない人気のヒミツ、西城秀樹の人一倍優れた歌唱力

2018年5月に惜しまれつつ逝去した西城秀樹。今もファンからの応援の声がやまず、ともすれば健在だった頃よりも熱く支持されているのではないかと思わされるほどだ。衰えない人気の秘密は、誰もが称賛する実直な人柄はもちろんのこと、人一倍優れた歌唱力によるところが大きいだろう。人間性の素晴らしさは万人を惹き付ける情熱的な歌声にも表れていた。

デビュー時のキャッチフレーズは “ワイルドな17歳”。3枚目のシングル「チャンスは一度」から振り付けが導入され、初のベストテン入りを果たした5枚目の「情熱の嵐」では “ヒデキ” コールが話題となる。さらに「激しい恋」「傷だらけのローラ」といったヒットが並び、初期のヒデキといえばやはりアクションが前面に押し出された絶叫型歌唱のイメージがある。学生時代から喧嘩っ早く、洋楽ロックが好きだったという経歴もそれに重なるわけだが、一方で静かなバラードやソフトタッチの作品でも抜群の魅力を発揮していたところに優しさの本質が垣間見られるわけで、1980年の暮れに出された「眠れぬ夜」もそんな一枚といえる。

大人路線にシフトした西城秀樹が歌ったオフコース「眠れぬ夜」

6枚ものシングルをリリースした1980年は、1月に出された「悲しき友情」、3月の「愛の園」をヒットさせているが、その前年1979年に「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を大ヒットさせた後、徐々に曲調が大人路線へとシフトしていた傾向が見られる。そんな中、通算36枚目のシングルとして12月16日にリリースされた「眠れぬ夜」は意外なカヴァーであった。オリジナルはオフコース。ニューミュージックの全盛時代、歌謡曲との融合は珍しくなくなっていたとしても、西城秀樹とオフコースの接点はそれまでに見当たらなかった。実際、オフコースのコンサートで西城秀樹が「眠れぬ夜」を歌うことになったと発表した際には、客席からブーイングの声が聴こえたという。

オフコースの「眠れぬ夜」はそれより5年前の1975年12月リリース。アルバム『ワインの匂い』に収録され、同時にシングルも発売された。小田和正と鈴木康博がふたりで活動していた時代、初のスマッシュヒットを記録し、彼らのライヴでも欠かせないナンバーとなっていただけに、西城がそのカヴァーに挑むのはちょっとした冒険だったはずである。

鮮やかな緩急の使い分け!落ち着いたナンバーからロック路線まで

しかしながら、少し抑え気味のヴォーカルと船山基紀によるポップなアレンジが絶妙にマッチして、緻密なハーモニーの本家に引けをとらない名カヴァーが完成。結果オリコン10位、TBS『ザ・ベストテン』では最高3位のヒットを記録した。ちなみにシングル盤のジャケットはデザインを新たに刷り直されたBタイプが存在する。中古市場での出現率から察するに、世に出回っている数はそれほど多くはないだろう。

1981年に入ると「リトルガール」「セクシーガール」「センチメンタルガール」と躍動感あふれる “ガール三部作” が続くも、その後は再び「南十字星」や「漂流者たち」といった落ち着いたナンバーを歌い、1983年の「ギャランドゥ」でまた新たなロック路線を開発と、緩急の使い分けが実に鮮やか。そしてそれは西城が歌手として円熟を極めていたからこそのローテーションだったはず。この後のバリー・マニロウとのコラボをはじめ、常に洋楽カヴァーに積極的に挑んでいたのも頷ける。

一度だけでも観てみたかった!小田和正と西城秀樹の共演

「眠れぬ夜」が『ザ・ベストテン』で3位を記録した時、1位は近藤真彦「スニーカーぶる~す」、2位は田原俊彦「恋=Do!」で、たのきん全盛期に新御三家も健在なのが頼もしく思えたことを憶えている。同時期にオフコースは「時に愛は」をヒットさせていたが、テレビ出演を拒否していたため西城との共演の機会はなかった。欲を言えば、一度だけでも小田和正と西城秀樹の共演による「眠れぬ夜」を観てみたかったと思うのだ。

カタリベ: 鈴木啓之

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