難病抱え欧州転戦 メダリストを突き動かす思い

「生きた証しを」 プロ転向、新たな挑戦

©株式会社全国新聞ネット

コンチネンタル杯で優勝し、笑みを浮かべる竹内択=12月7日、ビケルスン(本人提供)

 夢を追いかける五輪メダリストの新たな挑戦が始まった。2014年ソチ冬季五輪のノルディックスキー・ジャンプ男子団体で銅メダルを獲得した竹内択は19年5月に北野建設を退社した。現在は「チームtaku」を立ち上げ、サポート企業や個人の支援を募りながら、本場欧州を転戦する。日本で年間100人しかかからないとされる難病を抱えながら、実業団所属という安定した身分を手放してプロ活動に踏み切った。ジャンプ人気を日本で盛り上げるためだ。「日本のジャンプ界を変えたい」という熱い思いが32歳の異端児を突き動かす。(共同通信=伊藤慎吾)

 12月7日、ノルウェーのビケルスン。昨季の不振で、今季開幕はワールドカップ(W杯)遠征メンバーから外れた竹内は、W杯下部のコンチネンタル杯に臨んだ。出場選手の大半は、自分よりも10歳以上若い。そんな中で、五輪3度出場の底力を見せた。飛躍には不利な強い追い風をものともせず、K点(105メートル)を軽々と越えた。110・5メートル、111・5メートルを飛び、2回ともトップの得点をマーク。プロ転向後、初めて迎えた冬の開幕を白星で飾った。

 トップ選手が参加していない大会とはいっても、重圧はあった。今後のプロ活動をスムーズに進めるためには、結果が何よりもものをいうことを十分に理解していたからだ。それだけに、試合直後にファンや支援者へ送った「開幕戦優勝しましたよ~」というLINE(ライン)のメッセージには安堵がにじんだ。

 コンチネンタル杯は12月14日の第3戦が2位で、15日の第4戦で再び優勝。好成績を重ねて、年末年始にW杯を兼ねて実施されるジャンプ週間の出場枠をもぎ取った。「自力でこじ開けた。皆のパワーをもらってる感じがする」。21、22日にスイスで開かれるW杯を経て、ドイツとオーストリアに計10万人もの観客を集めて実施される伝統の4連戦へ臨む。

 13~14年シーズンのジャンプ週間が人生の転機だ。大会中に体調を崩し、最終戦を欠場。帰国後の検査で、全身の血管に炎症が起きる難病にかかったことが発覚した。重いせきの症状や手足のしびれ、体重の減少―。今も治療法が確立していない病気で一時は死も頭に浮かんだという。

入院中にトレーニングする竹内択=14年1月(本人提供)

 強い薬の副作用で顔には吹き出物ができ、筋肉もそげ落ちた。それでも直後の五輪を諦めなかった。病室でも感覚を忘れないようにジャンプの助走姿勢を組んだり、筋力維持に努めたり、体調を必死に整えてソチ入りした。

 ノーマルヒルが24位、ラージヒルは13位。決して満足はできない結果で個人戦を終えた。迎えた最後の団体。日本の2番手を務め「今できる精いっぱいのジャンプ」を繰り出してチームの3位に貢献した。日本が五輪の団体でメダルを獲得したのは、地元で優勝した1998年長野五輪以来だった。

ジャンプ団体の銅メダルを掲げる(左から)清水礼留飛、竹内択、伊東大貴、葛西紀明=2014年2月18日、ソチ(共同)

 突然の病気で「自分がいつ死ぬか分からない」と自覚したことが、プロ活動を始める背景にある。「生きた証しを残したい」。竹内にとっては、日本でジャンプの認知度を少しでも上げることが、その「証し」だ。

 ジャンプに長い歴史があり、高い人気を誇る欧州では、W杯会場に数万人の観客が詰めかけてお祭り騒ぎになることは珍しくない。しかし日本で広く注目されるのは、4年に1度の冬季五輪ぐらい。札幌で例年開催されるW杯も集客面ではドイツやオーストリア、ポーランド、スロベニアなどと比べると著しく見劣りする。ソチ五輪で葛西紀明(土屋ホーム)が個人の銀メダルをつかみ、日本が団体3位になっても、国内の状況はあまり変わっていない。

 竹内はプロになって競技の枠を超えた活動をすることで、日本のジャンプ界に風穴をあけることを狙っている。

 ジャンプの経験者でIT企業を経営するパートナーをチームtakuに迎え、公式ウェブサイト(https://taku-takeuchi.com)、ラインやインスタグラムなどの会員制交流サイト(SNS)を駆使してファンやスポンサーに直接アプローチ。育成年代を対象にした競技会を開催して競技人口の拡大を目指す。自分のアパレルブランドを立ち上げて、競技とこれまで関わりがなかった層の掘り起こしももくろんでいる。

 多岐にわたる活動の資金を調達するために、インターネットのクラウドファンディングを活用する予定。ウェブサイトの「CAMPFIRE(キャンプファイヤー)」で12月21日から来年1月30日まで、支援を募る。

 長野五輪で大活躍した日の丸飛行隊に刺激を受けてジャンプにのめり込んだのは、同世代の日本のジャンパーたちと同じだ。しかし、その後は人とは違うレールを歩んできた。長野県飯山市の中学で目標としていた日本一を逃し、卒業後に「より厳しい環境で成長したい」と、当時は世界的にトップクラスだったフィンランドに約3年間、単身で留学した。

 もちろん最初はフィンランド語がしゃべれず、日常生活にも苦労した。コーチの家にホームステイして地元の学校に通いながら飛躍を繰り返し、徐々に力をつけた。2005年に日本の海外遠征メンバーに抜てきされた。

 国外でジャンプを磨いて日本代表の主力にまで成長したのは竹内だけ。母の昌子さんは「思ったことにまっしぐら。昔からまっすぐだった」と振り返る。前例がないことに果敢に挑戦する姿勢は昔も今も変わらない。

2014年2月、ソチ冬季五輪のジャンプ男子団体で飛躍する竹内択(共同)

 実は、ソチで手にした団体の銅メダルを見ると「悔しさがこみ上げてくる」という。試合直後は、病を抱えながら表彰台に立てたことで感極まった表情も浮かべたが、時間がたつにつれて「自分で『取った』ではなく、仲間に『取らせてもらった』メダル」という気持ちが膨らんできた。自分を五輪の表彰台まで押し上げてくれた葛西らチームメートに感謝しつつ、一人のアスリートとして「個人の金メダルがほしい」という意欲が一層強くなった。

 昨年の平昌五輪は個人、団体ともメダルを獲得できなかった。プロとしての活動を通じて日本のジャンプ界を盛り上げながら、個人としては22年北京五輪で頂点に挑む。