50万人の多様性は評価できない  大学入試改革の誤謬(上)

By 佐々木央

国語と数学への記述式問題導入の見送りを発表する萩生田文科相=17日午前、文科省

 大学入試改革の柱、共通テストへの「英語の民間検定試験」と国語・数学の「記述式」導入が中止になったことを、まずは喜びたい。強行していたら混乱は必至だった。受験生からみたら「迷惑」といった軽い言葉では済まされないような、不条理な結果を招来しただろう。

 当事者の高校生や大学・高校教員の反対の声、そして野党の追及に追い込まれた末とはいえ、導入の旗を振った政治家や官僚がメンツを優先しなかったことは、最低限の良識を示したと評価していいだろう。

 だが、それだけで免責してはならない。このような事態に至った原因を明らかにして、この国の教育制度をぜひ、より良いものしなければならない。失敗から学ばなければ、制度を変えるために費やされた人的・物的コストは、文字通り空費されたことになってしまう。そして過ちは、形を変えて繰り返されるだろう。

 ■ものの見方は「接近」と「俯瞰」

 制度設計の根幹に関わる誤謬と、手続き的な、しかし、より本質的な欠陥を指摘したい。

 およそ物事を調べたり、実態を見極めたりするとき、私たちは「俯瞰」と「接近」の2つの方法を使っている。前者を「鳥の目」、後者を「虫の目」と呼ぶこともある。対象や目的によって、使い分けたり、両方を重ねたり、中間的なアプローチを採ったりしている。

 メディアの仕事もこの二つのやり方を組み合わせている。記者は入社すると、代表的な記事の種類として「本記」と「雑観」を教わる。

 例えば、大きな災害が起きたとき、「本記」は全体の被災者数や被災箇所、その内訳を示し、どんな過程でそれが起き、誰がどう対処しているのかを略述する。あくまでも冷静に客観的に、そして俯瞰的に。新聞記事ならそれが一面に掲載される。映像であれば、空撮がそれに当たるだろう。

 「雑観」を担当する記者は現場と当事者に接近する。規制線があってもその限界まで行き、情景や音、においまで感じ取り、伝えようと努める。被災者その人や遺族の声を聞こうと試みる。これらは主に社会面に載る。

 この二つの手法を組み合わせて、メディアは事態を立体的に描き出そうとする。

 容易に想像できるように、災害や事件の場合、本記に比べ雑観の取材は困難が多く、人的・経済的なコストもかかる。取材する側にも受ける側にも抵抗感があり、心理的な負担も無視できない。災害取材では記者の人命まで失われることがある。

 大学入学希望者に共通試験を課すなら、接近と俯瞰のどちらの方法が適切か。50万人を超える受験生にいちいち接近するのは、大変な労力が必要になる。大きな網をかけて基本的な学力を確かめるのが妥当だ。一斉の共通試験を前提とする限り、マークシート方式による現行の大学入試センター試験こそ、必然であり、合理的でもあった。

 ■「名ばかり記述式」でもコスト膨大

 だが、それでは見えない学力が出てくる。その見えない学力のうちで、英語を「書く・読む」力と、国語・数学の「思考力・判断力・表現力」こそが重要だ。そう考えた人たちがいた。

 誰がなんのためにそう考えたのか。それは受験生全員に要求するべき力なのか。手続き的な欠陥にも重なる問題があるが、今回はそれには触れない。

 次に、この2つの力を試す問題を一斉テストで課したい、それによって高校教育も変えたいと望んだ人たちがいた。ここに根本的な誤謬があった。少し冷静に考えれば、分かるはずだったと思う。どちらも一斉の試験で課すことは、ほとんど不可能だったのだ。

 英語で話す力を全国一斉に見ようとすれば、50万人の試験官が必要になる。客観性を担保するために2人で調べるなら100万人。その人達は少なくとも高校の英語教師のレベルを満たしていなくてはならないだろう。一斉の共通テストの枠でできることではない。

 だから民間の試験を利用しようとした。単一の試験では無理だから、複数の団体の試験を使おうと。だが、目的も内容も異なる試験を使えば、入試のときに最も重視されるはずの公平性を損なうことは自明だった。

 その試験の受験料は新しい共通テストの受験料とは別だ。貧困状態にある子どもが7人に1人というこの国で、負担増は貧しい受験生に退場を迫るに等しい。それを露骨に表現したのが、萩生田文科相による「身の丈」発言だった。

 国語や数学の記述式はどうか。

 全面的に採用すれば、各問でどれほど多様な解答が出てくるか想像もつかない。だからまず、記述式の設問を限定した。次に多様な解答を排除するため、考え方や解答のプロセスに条件を付けて解の幅を絞り込むことにした。思考力や判断力を養うはずだったのに、これではそれらを奪うことにしかならない。それが今回導入された「名ばかり記述式」であった。

 どちらも「接近」に必要な膨大なコストを考慮していない。国・数の「名ばかり記述式」の採点はベネッセの子会社「学力評価研究機構」が受託した。落札額は61億6千万円。

 50万人全員が国数の記述式に解答したとして、1人当たり1万2320円になる。センター試験の3教科以上の受験料は1万8千円、2教科以下は1万2千円であるから、大半がそれに消えることになる。「名ばかり」でも、それだけのコストが必要だった。

 ■首相発言に見る誤謬の原点

 今回の改革のスタートは2013年10月、安倍首相直轄の教育再生実行会議の提言だった。提言は現行の大学入試センター試験を「限界に達している」と厳しく批判した。

 その約3週間前、この会議に出席した安倍首相は大学入試について「多面的、総合的な評価に転換する必要がある」と強調している。このたびの改革は安倍首相と下村元文科相の強いリーダーシップのもとで進められてきた。

 だが、首相の発言を見る限り、一斉テストに「多面的な評価」という接近の視点を持ちこむことの重大性や困難性、膨大なコストについて、理解し、洞察した形跡は感じられない。それが誤謬の原点だった。(47NEWS編集部、共同通信編集委員=佐々木央、続く)

大学入試改革の誤謬(下)

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