パ第8代会長、原野和夫氏が死去 野茂、伊良部氏らMLB移籍草創期の舵取り担う

1991年1月22日にパ・リーグ会長に就任、2000年まで務めた

 パ・リーグ会長だった原野和夫氏が11月9日に死去した。91歳だった。

 原野氏は1928年山口県に生まれ、東京大学農学部を経て1950年に時事通信社に入社。那覇特派員、海外部長、編集局長を経て代表取締役社長に。退任後の1991年1月22日、パ・リーグの第8代目会長に就任。2000年まで務めた。

 原野会長時代のパ・リーグは、激動の時代だった。

 就任した1991年の7月31日のオーナー会議で、これまで川崎球場を本拠地にしていたロッテが千葉への移転を表明。翌年から千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)を本拠とする。

 1993年、NPBはFA(フリーエージェント)制度を導入。以後、パ・リーグからセの有力球団に主力選手の移籍が続出する。

 1994年9月20日、オリックスのイチローがNPB初のシーズン200安打を記録。10月6日に吉國一郎コミッショナー、川島廣守セ・リーグ会長、原野パ・リーグ会長が会談し、イチローを特別表彰するとともに翌年から「最多安打」をNPBの表彰記録(=タイトル)とすることを決定。イチローはパのMVPにも選ばれた。

 1995年1月9日、近鉄の野茂英雄が任意引退選手として公示される。野茂は球団と年俸や待遇面で折り合わず、契約を保留していたが、メジャー挑戦を目指して近鉄退団を決意した。野茂英雄は2月8日にロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約をした。

 この年は1月17日に阪神淡路大震災が発生、兵庫県を本拠地とするオリックスは「がんばろうKOBE」のスローガンを右袖につけてプレーした。

 1996年オフにはロッテの伊良部秀樹がFA資格取得前にMLBに移籍することを球団に訴える。ロッテはパドレスとのトレード交渉をまとめたが、伊良部はこれを拒否し、ヤンキースへの移籍を希望したため、パドレスは、ロッテ、ヤンキースとの三角トレードをまとめ、伊良部のヤンキース移籍が決まった。

 野茂と伊良部の移籍騒動が発端となって1998年に日米間で「日米間選手契約に関する協定」が調印されポスティングシステムが導入される。

1998年のダイエー「スパイ行為疑惑」では特別調査委設けて原因究明

 1997年3月、日本では3番目のドーム球場である大阪ドーム(現京セラドーム大阪)が開場。近鉄が本拠地とする。

 1998年7月、千葉ロッテは18連敗を記録。NPB記録を更新した。

 1998年オフ、ダイエーホークスの「スパイ行為疑惑」が発覚、原野氏は特別調査委員会を設けて原因究明を行い、嫌疑不十分ながらもダイエー社長を職務停止処分にした。

 1999年3月、西武球場のドーム化が完成する。西武にはこの年に松坂大輔が入団し、キャンプ中から大人気となる。

 2000年10月、オリックスのイチローがポスティングシステムでのメジャー移籍を表明する。11月30日にマリナーズへの移籍が決定。

 この年の12月31日に原野氏はパ・リーグ会長を辞任。9代目会長には元毎日新聞社長の小池唯夫氏が就任した。

 原野氏は退任後、世界少年野球推進財団評議員を務めた。

 就任時のパ・リーグの観客動員は974万4000人だったが、1997年に1001万2500人と初めて大台を超えた。

 2009年からは単独の組織としての「パシフィック・リーグ」はなくなり、連盟傘下のパシフィック・リーグ運営部となる。パ・リーグ会長と言う役職は今はない。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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