欠落した受験生の視点 教育基本法と国際準則に反する 大学入試改革の誤謬(下)

By 佐々木央

文科省前で共通テストの記述式問題導入に反対する人たち=12月6日

 頓挫した大学入試改革の出発点は、安倍首相直轄の教育再生実行会議による第4次提言であった。いまをさかのぼること6年、2013年10月31日に、それは公表された。提言の「はじめに」から、第1段落全文を引用する。

 ■人間よりも国家優先

 ―世界は、グローバル化が急速に進展し、人や物、情報等が国境を越えて行き交う大競争の中にあります。日本が将来にわたって国際社会で信頼、尊敬され、存在感を発揮しつつ発展していくためには、世界を舞台に挑戦する主体性と創造性、豊かな人間性を持った多様な人材が、社会の様々な分野で活躍することが求められます。また、少子・高齢化の進展に伴い、生産年齢人口が大幅に減少していく中で、経済成長を持続していくには、イノベーションの創出を活性化させるとともに、人材の質を飛躍的に高めていく必要があります―

 これを受けた第2段落は「そのためには、教育の在り方が決定的に重要であり…」と教育論に移っていくのだが、失敗に至る本質的欠陥はこの第1段落に端的に示されている。もっとも、それは書かれているのではなくて、見事に抜け落ちた視点によってなのだが。

 第1段落全体の意味上の主語は「日本」である。目標として掲げるのは「日本が将来にわたって国際社会で信頼、尊敬され、存在感を発揮しつつ発展していく」こと、さらに日本が「経済成長を持続していく」ことである。

そのために「世界を舞台に挑戦する主体性と創造性、豊かな人間性を持った多様な人材」が必要であり、「人材の質を飛躍的に高めて」いかねばならないのだと説く。ここに「人材」はあっても、「人間」はいない。「日本」はあっても、多様な人々が支え合って生きていくすがたは捨象されている。

 「人材」を辞書で引くと「才能があって、役に立つ人」などと説明している。つまり多面的な人間の中の、何かに役立つかどうかだけに着目した言葉だ。こうして提言は、若者を「国家の役に立つかどうか」という視点で切り取り、物化していく。

 ■「人格の完成」はどこへ

 国の機関が教育を語るなら、まず教育基本法を参照するべきではないか。

 教育基本法第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家および社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 2006年に改正され、だいぶ内容が変わってしまったが、それでも大切なことは残った。教育はまず一人一人の「人格の完成」を目指す。その次に求めるのが「国家および社会の形成者」の育成である。しかし、それも「平和で民主的な」国家・社会を構成していくためである。経済成長のためでも、グローバル化の中で他国を蹴落とすためでもない。

 子ども一人一人がどのように自らの生を選び、生きていくのか。それを大人はどう応援するのか。それこそが根本にあるべきだが、提言には、そんな視点はみじんもない。

 提言は現行の大学入試センター試験を「限界に達している」と、こっぴどく批判した。論拠として「1点刻みの合否判定を助長」「受験生の大きな心理的圧迫」を挙げた。

 だが「1点刻みの合否判定」は、センター試験の罪ではなく、最終的に合否判定をする個々の大学の責任であろう。加えて合否の線上に複数の受験生がいるとき、点数によるのか、面接や論文を重視するのかといったことは、それぞれの大学が選ぶことだ。客観性・公平性を大切にして、点数によって選抜することも一つの選択だと思う。

 「大きな心理的圧迫」にはデータがない。面接や集団討論といった主観がまじる方法より、緊張はしても、客観的な学力試験の方が良いと考える生徒も多いはずだが、それは無視している。

 入試を変えるなら、受験生にとって、それがどんな意味を持ち、どうあってほしいのかを直接、聞くことは不可欠だ。私はそう信じるが、受験生たちと膝を交えて語り合った形跡はない。

 ■状況動かした切実な声

 それでは会議のメンバーに、受験生や受験生に近い人はいたのか。名簿を見ると首相、官房長官、文科相から始まり、大学の学長や教授、県知事や経済人、作家らが並ぶ。安倍人脈と見られる人も多い。そもそも、受験生の気持ちを代弁できるような人がいれば、こんな「上から目線」、俯瞰的視点だけの提言にはならない。

 こうしたやり方は、教育基本法が定める「人格の完成」を置き去りにし、民主的な手続きも無視している。即ち、教育基本法1条に違反する。そればかりか、日本が批准した国際準則にも反している。

 国際準則とは「子どもの権利条約」のことだ。第12条1項は次のように述べる。

 ―締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする― 

 外務省訳だが言葉が難しい。子どもに理解されにくいように、わざと難しく訳しているのではないかと勘ぐりたくなる。日本ユニセフ協会による抄訳を示す。

 「子どもは、自分に関係のあることについて自由に自分の意見を表す権利をもっています。その意見は、子どもの発達に応じて、じゅうぶん考慮されなければなりません」

 だが「意見を言っていいんだよ」というだけでは、権利を保障したことにはならない。国や自治体は、子どもに関係のあることをやろうとするなら、子どもの意見を聞かなければならないのだ。つまり、センター試験を廃止して新テストをやりたいと思うなら、中高生の考えを聞くことは必須となる。

 新テストの記述式は「思考力・判断力・表現力」を試すはずだった。しかし、そう言いだした大人たち自身は、どうやら主体的に考える力も、実現性を判断する能力も不足していた。政治家の言い分や民間教育産業の声ばかり聞いたのではないか。自らの足りないところを補うために、当事者に接近して学ぼうとする努力を惜しんだ。

 この中にあって、中高校生のグループが新テストの中止を求める署名を集めて提出したり、文科省前で抗議集会を開いたりした。切実な声が状況を動かしたと思う。諦めずに行動し、国の施策を押し戻した若者たちを尊敬する。彼らに希望を見た。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

大学入試改革の誤謬(上)

https://www.47news.jp/47reporters/4329034.html

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