近藤真彦「スニーカーぶる~す」オリコン史上初、デビュー曲で初登場1位! 1980年 12月22日 近藤真彦のシングル「スニーカーぶる~す」がオリコンチャートで1位を記録した日

マッチこと近藤真彦、レコードデビュー40周年!

40年目になるんだね。マッチこと近藤真彦がレコードデビューしてから。昨日のように覚えてるんだけどねぇ。生意気でやんちゃ坊主だったころのマッチ。今でこそ、ジャニーズ批判派のワタシだけど、あの頃 “たのきん” って好きだったよなぁ。当時、ワタシはと言えば、断然マッチ派だったんだよね。

あの頃って、軟派のトシちゃん、硬派なマッチみたいな、“色分け” がされてましたよね。月刊『明星』とかの雑誌では、マッチの破天荒というか、おちゃめな悪ガキで、土臭そうなところが良かったんだよね。え? 土臭そうって、なんじゃそりゃ? … いや、あの頃『ザ・ベストテン』で「ハイティーン・ブギ」の時の泥だらけのセットに、『明星』の「モトクロス体験」で泥だらけのマッチなどなど、土臭いイメージがあるんだよなぁ個人的には。それがカッコ良かったのよ。ワタシ、この当時は、まだ福島の田舎の小僧だったんでね。そんなマッチの方が親近感があったんだよね、きっと。だからね~、行きましたよ、たのきん映画第1弾『青春グラフィティ スニーカーぶる~す』。田舎の映画館にさあ。2回くらい行ったような気がする。… といっても、内容なんて覚えてないけど…。

いきなりのミリオンセラー、デビュー曲「スニーカーぶる~す」

考えて見れば、“ピン(ソロ)” でデビューして、いきなりデビュー曲がミリオンセラーになったのなんて、マッチだけなんだよね。今の嵐とか関ジャニ∞がいくら絶大な人気があるっていっても、あくまでグループでの人気であって、“ピン” の人気じゃないからさぁ。当時のマッチの人気がいかに凄かったのか分かりますよね。

デビュー曲「スニーカーぶる~す」、たしかに曲も良かった。今にして思えば、“青春歌謡” っていう路線で、かなりクサいんだけとさ、当時は、これはこれでよかったんだよね。いや、当時は良い悪いなんてものを超えてたような気がする。“気がついてみれば、みんなで歌ってた” な。いや、だからこそ、ミリオンセラー達成っていう快挙にながったんだよね。

1980年以前、アイドルのミリオンセラーはピンク・レディーだけ

当時、アイドル系でミリオンセラー達成っていうのは並大抵の快挙では無かった。1980年当時、レコードは今に比べると高価なものだったんだよね。シングル1枚700円。今のCDシングルよりも安いじゃんと思われがちだけど、相対的な物価が約40年前とは違う訳で…。1980年の大卒初任給の平均は115,000円。ここから現在の価値に変換すると、シングルレコード1枚、1,250円程度となる。しかも、当時のアイドル…特にマッチのファン層の中心は、当時の小~中学生、つまりは我々の世代ですわな。

ちなみに当時、ワタシの小遣いは月800円だった。シングルレコード1枚買ったら残り100円ですよ。だからね、小~中学生が、たとえ700円でもシングルレコードを買うっていうのは、それ相応の “覚悟” が必要だったんだよね。そのため、当時のレコードの購買中心層は大学生から上の世代。

それゆえに、当時、オリコンでのミリオンセラーは演歌、ニューミュージック勢で占められており、「スニーカーぶる~す」以前、アイドルでミリオンセラーを記録していたのはピンク・レディーだけ。当時すでに伝説的なアイドルであった、山口百恵、西城秀樹、沢田研二、岩崎宏美、太田裕美… だれもミリオンセラーを達成していない。

マッチに課せられた条件とプロデューサー小杉理宇造の大胆な施策

それでも、マッチの場合、実は「スニーカーぶる~す」リリース前から、レコードデビューに当たっての条件があった。それが、

デビュー曲、オリコン初登場1位&ミリオンセラー達成

一見すると無謀なハードル。まさに “鬼” のジャニーズと思える条件。ただ、ジャニーズ側としては、絶対にクリアできないハードルとは思っていなかったらしい。

というのも、トシちゃんのデビュー曲「哀愁でいと」の売り上げが70万枚を記録。で、当時、マッチのファンレターは、トシちゃんの1.5倍はあったとのこと。そうであるならば、マッチのデビュー曲でミリオンセラーは可能であるんじゃないか。そういう考えだったようだ。

実際、70万の1.5倍っていったら105万になるから…。うむ、確かに机上の計算ではそうだ…。でも、実際はそんな単純なもんじゃない。そこで引き下がらなかったのが、当時 RVC のプロデューサーで、マッチ獲得に成功した小杉理宇造氏。このヒトが根っからのプロデューサーだったんですよ。

オリコン初登場1位を狙った施策、週末を狙って一気に売り切る!

まず、オリコン初登場1位への施策。このために、リリース半月も前からフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に出演させたりプロモーションも大々的に行ったのは言うまでもないが、最も大胆な施策は、リリース日を12月12日などという半端な日にしたことだ。

それまでのレコードリリースは、1日、5日、15日… といった、いわいる “五十日(ごとおび)” にリリースされることが通例。だから、必ずしもオリコン集計期間にバッティングされることは少なかった。「スニーカーぶる~す」以前に初登場1位が少なかったのは、これによるところも大きい。

でも、これをあえて逆手にとり、12月12日… などという当時の通常のリリース日ローテーションから外し、敢えて “臨発” 扱いにした。

では何故12月12日なのか… というと、1980年12月12日は金曜日。オリコンの集計期間は月曜日~日曜日。つまり週末を狙って一気に売り切ろうという作戦に出たわけですね。結果的にはこれが功を奏し、週間売り上げ10.1万枚の初登場1位を記録する。

ミリオンセラーを狙った施策、お年玉狙いで分かりやすい楽曲!

ミリオンセラーを狙うという施策としては、デビューを12月にしたことですね。お年玉狙いって訳ですわ。正月にお年玉を使えば、小中学生でも700円のシングルも買いやすくなるっていう狙い。もう一つは、楽曲を分かりやすく、より多くのヒトに刺さりやすくするっていう狙い。これが上で書いたような “気がついてみれば、みんなで歌ってた” ってところに繋がる。

この当時、より売れる楽曲にするためには、より大衆的な音楽にするのが一番の命題だったんだよね。「音楽的にクオリティが高い」っていうのは、二の次だったんですよ。以前NHKで放送された『井上陽水 ドキュメント「氷の世界40年」 ~日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃とその時代~』という番組で、70年代陽水氏のプロデューサーであった多賀英典氏も、「心もよう」と「帰れない二人」、どちらをシングルのタイトル曲に切るか… という問題で、音楽的完成度が高い「帰りない二人」ではなく、より大衆的な「心もよう」をタイトルシングルに切ったという話をされている。つまりは“大衆性” というのが一番だったわけ。

結果、それらの狙いが全てハマり、「スニーカーぶる~す」は、ミリオンセラーを達成する。奇しくも、売り上げ104.7万枚っていう数字が、ジャニーズが当初考えていた、トシちゃんの「哀愁でいと」の約1.5倍だったっていうのと、事後の結果から見ると偶然であったのか、それとも目論見通りだったのか…。いずれにしろ、ジャニーズのそういうところがコワイところなんだろうし、だれも文句が言えないところなんだろうな。

ときに…「スニーカーぶる~す」をミリオンセラーにするために数々の施策が行われていたなんて露とも知らなかったこの当時、ワタシといえばクラスのお楽しみ会で、仲のいい3人で「たのきん だぁ!」とか言って、マッチの「スニーカーぶる~す」とかトシちゃんの「哀愁でいと」を歌ってたよなぁ… その時に “歌本” っちゅう存在を知って『明星』を買うようになったんだよね。 考えて見れば、あん時の「おたのしみ会」が何気に今に繋がってたりするんだよなぁ、ワタシ。 …っつうことは、「スニーカーぶる~す」は、今に直でつながる “原点” の1曲… って言えるかもしれんなぁ。 

Song Data
■ 近藤真彦 / スニーカーぶる~す
■ 作詞:松本隆
■ 作曲:筒美京平
■ 編曲:馬飼野康二
■ リリース日:1978年12月12日
■ 発売元:RVC
■ オリコン最高位:1位
■ 売上枚数:104.7万枚
■ タイアップ:東宝映画『青春グラフィティ スニーカーぶる~す』主題歌

■ かじやんの THE HITCHART HOT30 最高位:1位
■ HOT30 ランクイン期間:1980年12月29日~1981年3月30日付

カタリベ: かじやん

© Reminder LLC