伝説の有馬記念、オグリキャップの軌跡と沢田知可子の隠れた名曲 1990年 12月23日 オグリキャップが「第35回有馬記念」で優勝した日

第35回有馬記念、有終の美を飾ったオグリキャップ

1990年12月23日…その日はJRA日本中央競馬会が主催する GⅠレース『第35回有馬記念』開催日であり、昭和から平成を跨いで駆け抜けたアイドルホースの引退レースでもあった。

“芦毛の怪物” と称されたその馬の全盛期はとっくに過ぎていて、競馬関係者や多くのファンもそれを認めていた。それでも人気投票1位に推されたのは、熱心なファンに支えられてのことだろう。その日、中山競馬場の入場者数は17万人を超え、隙間なく埋め尽くされたスタンドを馬場から見た武騎手は「異様な光景だった」とコメントを残している。それほどまでに、その馬は多くの人に愛されたのだ。

勝った馬だけに与えられるレース後のウイニングラン―― 武騎手を乗せたその馬は、ゆっくりとメインスタンド前に戻ってきた。地鳴りを起こすほどの声援がスタンドに響き渡る。場内に木霊(こだま)するその歓声は、自然に馬の名へと変わっていった。いい歳のオヤジたちは丸めた競馬新聞を高々と掲げ、その握りこぶしで涙を拭っていた。

有終の美を飾ったその馬の名は、オグリキャップという。

若い競馬ファン獲得の動き、JRA は当時のトレンディ俳優をCMに起用!

日本中央競馬会は1987年から略称を JRA(Japan Racing Association)に改めた。皇帝の名で呼ばれたシンボリルドルフの人気によって、多くの競馬ファンを獲得した結果の躍進であろう。また、場外勝馬投票券発売所の愛称を「WINS(ウインズ)」としたり、同年12月には本馬場入場曲と発走ファンファーレを新しくしている。

さて、昔から競馬のCMはあったけれど、芸能人やタレントを使ったCMは1988年の小林薫からと記憶する。この頃はまだ落ち着いた感じのCMに作られていて、往年の競馬ファンを意識した風である。その後1990年からは、賀来千香子、柳葉敏郎という若手トレンディー俳優がCMに起用された。これはオグリキャップの活躍により多くの若いファンが付き、そのぬいぐるみが女性ファンにバカ売れするといった社会現象も理由の一つだと思う。

競馬のイメージを変えたCMソング、沢田知可子「Live On The Turf」

1990年度 JRA のCM曲は、競馬を楽しむ二人をイメージして作られた「Live On The Turf」(作詞:暮醐遊、作曲:小林明子、編曲:岩本正樹)だ。歌うのは沢田知可子… そう、「会いたい」で大ヒットを記録した彼女である。

ただ、「Live On The Turf」が、その「会いたい」からわずか1カ月後に発売された経緯もあり、このCM曲の印象が世間的に薄くなってしまったのは否めない。掛け合いのコーラスも面白く、個人的には “もうちょっと売れてもよかったんじゃないかな?” と思っているし、一聴の価値ありと断言したい。

爽やかなメロディーと沢田の透き通るような歌声によって、公営ギャンブルである競馬のイメージは、この時を持って完全に払しょくされただろう。“カップルが休日を競馬場で過ごす” というイメージ戦略は1990年以降常識となり、このときから競馬新聞片手のオヤジたちは肩身の狭い雰囲気に飲みこまれていったのだ。

オグリキャップのサクセスストーリー、地方競馬から中央競馬へ

生まれながらに右前脚が外を向いていて、競走馬として大きな障害を抱えていたオグリキャップ。この障害は成長するにつれ改善されていったけれども、後に競走馬としてコーナーから直線を向くときに “手前” を変える(右脚を前にするか左脚を前にするか… その合図がオグリキャップのスパートするタイミングだった)ことに少々難を残す。それでも地方競馬デビューからの一年間は天性の実力で優秀な戦績を残し、1988年1月、鳴り物入りで中央競馬に移籍を果たすことになった。

そしてここからオグリキャップの伝説は始まる――
ふつう実力のある4歳馬(現3歳馬)は、最初にクラシック登録(注1)をして同年齢の馬と『東京優駿(日本ダービー)』を目指すものだけれど、途中から加入したオグリキャップは制度上登録ができないため、どんなに成績が良くてもダービーに出走できなかったのだ。そのため、オグリキャップは仕方なく古馬混合の重賞レースに出走するしかなかった。まぁ中卒で高校行ってないから高校総体に出られないので、社会人と一緒の競技に出場する… みたいなものである。

ところがどうして、移籍後初めてのレースから古馬を相手に連戦連勝を記録したオグリキャップ。とうとう重賞七連勝を賭け GⅠ の舞台『天皇賞(秋)』に出走することになった。相手は GⅠ 三連勝を賭けて出走するタマモクロスだ。このレース、今はもう無い「単枠指定(注2)」にこの二頭が選ばれ、完全に一騎打ちの様相となった。結果はタマモクロス1着、オグリキャップ2着。中央競馬初めての敗退である。その次のレースは『ジャパンカップ』。このレースでも海外馬、タマモクロスに続く3着でオグリキャップは敗れてしまう。

しかし、この年の締めくくり『有馬記念』で、鞍上が岡部幸雄騎手(迷ったら岡部を買え! と言われたほどの名騎手)に変わり、オグリキャップはついに宿敵タマモクロスを破り1着になったのだ。この、田舎から出て来た坊やが都会の荒波に揉まれながらも大人を翻弄し、大活躍するサクセスストーリーに、多くの競馬ファンが酔いしれてしまったことは言うまでもない。

オグリキャップを待ち受ける試練、限界を超えたコンディション?

翌1989年、さらに過酷な試練がオグリキャップを待ち受けていた。春競馬を故障で棒に振ったオグリキャップは9月から12月までの僅か3か月間で重賞6レース(一般的には3レース)を走ることになるのだ… 特に、『マイルチャンピオンシップ』から『ジャパンカップ』という連闘で GⅠ に出走を決めたのは前代未聞だった。野球で例えるならば日本シリーズで先発を連投するようなものである。

オグリキャップは『マイルチャンピオンシップ』で、一度抜かれてから差し返して1着、『ジャパンカップ』は惜しくも2着であったが当時の世界レコードを叩き出したのだ。ただ、これは傍目に見ても走り過ぎであり、この年の『有馬記念』は5着に沈んでしまった。すでに限界を超えていたのだ。

1990年のオグリキャップは、春の2戦は活躍したものの、秋の『天皇賞』(6着)『ジャパンカップ』(11着)と惨敗した。このときの鞍上は増沢末夫騎手(一説では相性が悪かったと言われている)。精彩を欠いていたオグリキャップは、このとき “直線で手前を変える” こともしなくなっていた。「オグリはもう終わった」とファンが思うのも仕方ないだろう。

ただし、同じ『ジャパンカップ』でジョージモナークに騎乗していた的場文男騎手は「オグリは凄い」とコメントを残している。3、4コーナーのまくりが尋常じゃなかったとのこと… そう、有馬記念の奇跡は起こるべくして起こったのかもしれない。

有馬記念の奇跡! 若き天才 武豊 の絶妙な手綱さばき

この日、1990年12月23日の『第35回有馬記念』でオグリキャップの鞍上に指名されたのは “若き天才” 武豊騎手だった。ずっとライバル馬として意識していたオグリキャップ。武騎手によると、同年春の『安田記念』で騎乗したときに相性が良いことはわかっていたという。それでも、その日のオグリキャップは「全盛期の勢いを感じられなかった」ともコメントしている。

ついにそのときが来た――
昇降機に乗った白いスーツの職員が赤い旗を振る。自衛隊が生演奏するファンファーレが、冬晴れの澄み切った空に鳴り響いてゆく。スタンドのボルテージは最高潮に達した。

ゲートが開く――
メインスタンド前を通過する馬群、大歓声、そして1、2コーナーへ。鞍上の武騎手が手綱を緩く持つ、天才は天才の仕事を淡々とこなすだけ。馬群はゆっくりとしたペースで向こう正面を走り抜けた。

そして運命の最終コーナーへ――
武騎手の絶妙な手綱さばきが奇跡を起こす。その瞬間、オグリキャップは “手前” を変えた。

それは紛れもなく GOサインの証――
強烈な加速… 飛び切り重心の低い目線のその先に、他の馬はもういなかった。冬枯れした芝を勢いよく蹴ったオグリキャップは、ホームストレッチを一気に駆け抜けていった。

最後に、ファンの多くは、この “当たり馬券” を今も換金せずに、大切に持っているという。このことを知った JRA は翌1991年から、番号だけの記載だった勝馬投票券に馬名を一緒に記載することを決定した。これは、馬番連勝導入によるシステム変更に伴っての措置だが、この粋な決定は競馬ファンの心を掴んだ。

そう、競馬とはロマンだからだ。

注1:クラシック登録とは、クラシック5競走『皐月賞』『桜花賞』『優駿牝馬(オークス)』『東京優駿(ダービー)』『菊花賞』に出走するための事前登録制度で、一生に一度しか出走機会が与えられない。種牡馬や繁殖牝馬の価値を高める意味合いもある。オグリキャップの活躍によって現在は追加登録が可能になった。

注2:単枠指定制度とは、圧倒的人気馬、実力馬が出走取り消しになった場合、その枠自体の馬券的中確立が著しく低下してしまう問題解決のため導入された。1991年10月5日、馬番連勝複式勝馬投票券が全国販売されたことに伴い廃止。選ばれし強い馬の称号であり栄誉な雰囲気もあって、当時「単枠指定」が発表されるとワクワクした。

カタリベ: ミチュルル©︎

© Reminder LLC