【明治維新鴻業の発祥地、山口今年は大村益次郎遭難から150年】 No.207(最終回)

▲大村益次郎夫妻の墓(鋳銭司)

(12月18日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

無言の帰郷

 小鳥の鳴き声が響き渡り、朝から降り続く雨は落ち葉を叩く。ただひとり、墓所に佇む。風は無い。

 背後に建つ神道碑の裏には多くの名が刻まれ、遥か遠くには、陶ヶ岳、火の山の連山が霞む。

 立ち去りがたくなる。

 1869(明治2)年11月5日、益次郎は帰らぬ人となった。享年45。

 この時、妻の琴は、夫の危篤の知らせを聞き、急きょ大阪へ向かった。だが、臨終に立ち会うことは叶わなかった。

 益次郎の遺骸は、郷里である鋳銭司村へ葬られることとなり、大阪から瀬戸内海を経て三田尻へ上陸。そこから陸路を進んだ。

 神式をもって葬られたのは11月20日のことであった。

命の限り

 ひたすら学問に身を捧げた10代、20代。生涯の師と出会うこととなったあの青春時代。

 教育者としての第一歩を踏み出し、多くの門人たちを指導。優秀な人材を送り出し、広く世間にその名を知られるようになった30代。

 そして40代。国のため、道のために、蓄えたその知識を、惜しむことなく使い果たした。

 命の限り咲き盛る、あの花のように。

(完)

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