「村上春樹を読む」(99)「もうそろそろ」と「義務だと思ってた」 文庫版『みみずくは黄昏に飛びたつ』

『みみずくは黄昏(たそがれ)に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』(新潮文庫)

 作家・川上未映子さんによる村上春樹へのロングインタビュー『みみずくは黄昏(たそがれ)に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』の新潮文庫版が、この12月に刊行されました。

 文庫版の巻末に付録として「文庫版のためのちょっと長い対談」が付いています。今回の「村上春樹を読む」では、この文庫巻末付録の「ちょっと長い対談」を読みながら考えたことについて書いてみたいと思います。

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 一読して、まず響いてきた言葉は「もうそろそろ」という感覚です。

 具体的な言葉としては「僕は今年七十歳になったわけで、これまでやってきたことと少し変えてみようと思ったんだ。たとえば、これまでは文章を書く以外のことはできるだけしないようにしようと心に決めて仕事をしてきたけど、もうそろそろ、少しはほかのこともやっていいんじゃないかと……」と村上春樹は語っています。

 村上春樹は2018年の夏からTOKYO FMで『村上RADIO』として、ラジオDJを始めて、ほぼ2カ月に1度のペースで続けています。

 そのラジオDJを始めたことに「びっくりしました」という川上さんの発言に応じて、「もうそろそろ」と村上春樹が答えているわけです。

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 でも、その「もうそろそろ」の感覚は、この付録の対談で、さらに繰り返されています。例えば、次のようにです。

 「小説に限らず僕は文章を書くのが好きだし、文章を書いて生活できるって素晴らしいと思うし、だからそれ以外のことはなるべくやらないようにしようと自分を戒めてきた」「とにかく僕は文章を書くのが単純に好きなんだ。だからあまりほかのことをやりたくなかった。でも、そろそろそういう縛りを解除して何かほかの空気を入れてもいいかなと思ってね」と話しています。

 このようにも話しています。

 「いちばん大事なのは、書きたいと思った時に、書きたいように書くということだから、とにかく待ってるしかないんだよね。待つのが僕の仕事だから」と、小説家の仕事について述べた後、「そんなにもうギリギリやる必要ないから」と語り、「文章を書く以外の仕事はまったくしないことにしようと決めて四十年ぐらいずっとやってきたけど、そろそろ手綱をいくらか緩めてもいいかと。やっぱり音楽に関わることは、僕にはすごく楽しいから」と村上春樹が述べているのです。

 繰り返される、この「もうそろそろ」の感覚が、最も印象的です。

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 この感覚は、どこからやってくるのでしょうか。

 紹介した村上春樹の言葉の中で、自身が述べているように、今年(2019年)、村上春樹が70歳となったことも大きいでしょう。そして『風の歌を聴け』(1979年)でデビューして以来、今年がちょうど作家生活40年なので、これを機会に「もうそろそろ」という思いなのかもしれません。

 でも、私は、この繰り返される「もうそろそろ」という発言の感覚には、月刊誌「文藝春秋」の今年(2019年)6月号で、村上春樹が自らのルーツを初めて綴った「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を書き上げたことがかなり反映しているのではないかと感じています。

 もちろん『村上RADIO』のラジオDJは昨夏から始まっています(第1回の収録は昨春)。ですから、70歳となったことや、作家生活40年を迎えたことなどと、ピッタリ時間が一致しているわけではありませんし、「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」が掲載された時期と一致するわけでもありません。

 でも「それ以外のことはなるべくやらないようにしよう」と自分を「戒めてきた」村上春樹が、「あまりほかのことをやりたくなかった」という「縛り」で書いてきた村上春樹が、「手綱」を締めて「文章を書く以外の仕事はまったくしないことにしようと決めて四十年ぐらいずっとやってきた」村上春樹が、「もうそろそろ」と繰り返し述べる言葉の中に、書かなくてはいけないことをしっかり書けたという思いの反映があるのではないかと感じるのです。

 これらの「戒めて」「縛り」「手綱」という言葉からは、村上春樹がいかに自分を律して、行動し、書いてきたが伝わってきますね。

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 そして、この付録の川上未映子さんとの対談は、2019年9月13日に行われたものだそうです。この時点で、大切なものを果たしたという思いが、その「戒め」「縛り」「手綱」から“もう少し自由になってもいい”ということを繰り返し述べることに繋がっているのではないかと感じるのです。

 つまり、書かなくてはいけないことをちゃんと書いて「ホッとしている」気持ちが、「もうそろそろ」の言葉となって、繰り返されているのではないでしょうか。

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 「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」は、この「村上春樹を読む」の中でも、何回か紹介してきたように、村上春樹文学を読む人にとって、今後、重要な文章となっていくと思います。

 その「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を、なぜ書いたかについても、村上春樹は語っています。

 川上未映子さんは、村上春樹が信頼する小説家であり、インタビューアだと思います。

 インタビュー部分の最後は「しかしそれにしてもこれ、すさまじいインタビューだったなあ(笑)。あと二年くらい何もしゃべらなくていいかも」という発言で、村上春樹の言葉は終わっています。

 これに対して、川上さんが「では、ぜひまた二年後に(笑)。本当にありがとうございました」という言葉を加えています。2017年2月2日のインタビューだったようですので、2年半後の、付録の「対談」となったようです。(ちなみに、インタビューの本文は「――」で始まる川上さんの質問に、村上春樹が「村上」として答える形です。付録対談は「川上」「村上」が交互に語っていく対談の形になっています。)

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 今回の付録対談でも、川上さんの鋭い質問はちゃんと生きています。

 「やっぱりこの二年のお仕事の中でも、まったく違うのが、お父様について書かれたメモワールというか長いエッセイの『猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること』です」と述べています。村上春樹も「(深く頷きながら)そうですね」と答えていますが、続いて川上さんは「これについてお話を伺いたいと思います。これまでの春樹さんを考えると、お父様について書くというのは、ちょっとやっぱり考えられなかったお仕事ですよね」と、ズバリ質問しています。

 つまり、対談の流れの中で、話題にのぼるという形ではなく、これは訊かなくてはならないと覚悟して、質問しているのです。

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 これに対して、村上春樹は「そうかもしれない。家族のことはできるだけ書かないようにしていたから。でも、父親のことはいつかは書かなくちゃいけないと思いながら延ばし延ばしにしてたんです。なるべくもう、人生のあとのほうで書こうと思ってたから」と答えています。

 さらに「じゃ最初から、いつか書かなきゃいけないなとは思っていたんですか。ずいぶん昔からですか」という問いに対して、村上春樹は次のように、答えています。

 「うん、思ってた。父が生きてるときから書かなくちゃと思ってたんだけど、生きてるときは僕もちょっと嫌だったから、十年ほど前に父が亡くなったあと、いつかまとまったものを書かなくちゃなと考え続けていました」

 続けて、川上さんが「漠然とした予感として?」と訊くと

 村上春樹は「いや、漠然とした予感じゃなくて、書かなくちゃいけないと思ってたんだよね。書くのは一種の義務だと思ってたから」と答え、さらに「一番大きいのは父親の戦争体験で、僕はそれを語り継がなくちゃいけないと思っていたということです。理屈で歴史がどうこうとか、戦争がどうこうと語るのは好きじゃないから、自分に即した実際の事をファクトで語るしかない。それが僕のやらなくちゃならないことだった」と述べているのです。

 「準備期間というより、どういうふうに書くか、肚(はら)を決めるのに時間がかかったと思う。資料をちょっとずつ集めてはいたけど、どんな形でどう書けばいいのか決めかねて、結局猫の話で始めて、それでやっと書けた」

 とも語っています。確かに「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」の、猫の話で始まり、猫で終わる形はいいですね。その「猫」で書き始めていくことについては、こう答えています。

 「たとえばどんなに深い立派なことを考えていたとしても、それをロジックで表層的なメッセージにして書いちゃうと、人には伝わらないんです。小説家には小説家のものの書き方があると思う」

 「お父様のことを書いたことで、ご自身に何か影響はありましたか。ちょっと肩の荷が下りたとか」という質問には、村上春樹は「そうだね、書いてよかったと思うし、それは僕の書かなくちゃいけないこと、死ぬまでに片付けておかなくちゃいけないことの一つだったから」答えています。

 さらに戦争という暴力性にフィクションから迫っていくのと、父親の実際の記憶とそのファクトからアプローチするのは、どう違っているかという質問に対しては、

 「僕は小説家だから、フィクションにして書くと、どんなことでもどうにでも形を置き換えていけるわけです。それがフィクションの強みだから。でもノンフィクションだと、どうしても逃げ切れないところが出てくる。そこには身を切るような痛みもあります。でも、きっとそういうものが必要なんだね」と答えています。

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 ですから、この書かなくちゃいけないと思っていて「書くのは一種の義務だと思ってた」こと、「死ぬまでに片付けておかなくちゃいけないこと」、「身を切るような痛み」もある「どうしても逃げ切れないところが出てくる」ような「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」を書き上げたことが、「もうそろそろ」という言葉、その感覚の繰り返しの表明となっているのではないかと思うのです。

 「戒め」「縛り」「手綱」を締めて、書き続けてきた村上春樹が身を切るような痛みをともないながら、一種の義務だと思っていた父親の戦争体験を書き、それを語り継ぐことができたことが、「もうそろそろ」という言葉、その感覚の繰り返しの表明となっているのではないかと思います。

 この「猫を棄てる――父親について語るときに僕の語ること」について語っていることがこの「文庫版のためのちょっと長い対談」のハイライトだと思います。

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 そしてもう1つ、村上春樹作品を読み続けてきたものとして、立ち止まり、その理由などを考え込んでしまった発言がありました。それはこんなことです。

 村上春樹が自作長編について、次のようなことを言っているのです。

 「村上 『ノルウェイの森』を今書いたら、もっともっとうまく書けると思うけど、きっとあれはあれぐらいの段階で書いといて一番良かったんじゃないかって……」

 「村上 結果的にね。僕がいちばん考え込んでしまうのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。今だったらもっとうまく書けたよなと思う。あれはもっとあとで書いたほうがよかったかもしれないと思うけど、『ノルウェイの森』はあのときにああいう風に書くしかなかったと思う」

 という発言です。

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 この「文庫版のためのちょっと長い対談」ではこのあと『ノルウェイの森』(1987年)については、語られていきますが「結果的にね。僕がいちばん考え込んでしまう」という『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)については、何も語られません。

 実は、私が村上春樹を初めてインタビューした作品が、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』です。村上春樹は、この作品で、戦後生まれとして初めて谷崎潤一郎賞を受けたので、その際、もう1度、取材しているという愛着ある作品です。それが村上春樹にとって「いちばん考え込んでしまう」作品なのです。

 私の周囲にも、この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が一番好きだという人もいますし、違う意見の人もいます。でもともかく、この『風の歌を聴け』から始まって『1973年のピンボール』(1980年)、『羊をめぐる冒険』(1982年)、そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』までが大好きという読者がかなりいます。その作品について、作家生活40年を振り返ると「いちばん考え込んでしまう」と村上春樹は語っているのです。

 この点を少しだけ考えてみたいと思います。

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 村上春樹の愛読者なら知っている人が多いのですが、この作品は「街と、その不確かな壁」という中編小説(単行本未収録)を拡大して書き直したものです。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、高い壁に囲まれた出口なしの街に暮らす「僕」の「世界の終り」という閉鎖系の物語と、「ハードボイルド・ワンダーランド」という開放系の話が交互に展開していく物語です。

 「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうは計算士と呼ばれる特殊情報処理技術者である「私」が意識や脳の研究者である老博士に依頼されたことから、博士の研究を奪おうとするグループとの闘いに巻き込まれ、東京の地底を逃げ回る話です。ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』に繋がる楽しい話です。

 述べたように、「街と、その不確かな壁」を書き直して書いたのが『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で、「世界の終り」の話の部分が「街と、その不確かな壁」のほうの話に相当しています。

 主人公の「僕」をはじめとする人々が高い壁に囲まれた不思議な街に住んでいる世界です。人々は街に入る時に、門の所で自分の「影」を切り離し、門番に預けます。それと引き換えに、人々は安らぎに満ちた生活を街で送ることができるのです。でも、なかには「世界の終り」の街で、人間の心を捨てきれない者がいて、その人たちは「森」のなかに追放されるのです。

 物語の最後、「影」は「世界の終り」の世界は脱出しますが、「僕」は自分の意思で街にとどまり、「森」という生の混沌の中に入っていこうとするところで物語が終わっています。

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 「この街は不自然で間違っている」と説く「影」の言葉に説得力があるようにも伝わってきますが、しかし「僕」が森の中に入っていくラストに、力と膨らみのようなものを感じて、最初のインタビュー記事を書いた記憶があります。

 その記事を貼った34年前のスクラップブックを引っぱり出して見てみますと、「壁に囲まれた街の中の森という自己の二重否定のなかに村上さんは人間の存在を支える内在的な力を見つけようとしているようだ」と、私(小山)は書いていました。

 つまり「壁に囲まれた街」という負の世界(マイナス世界)。さらに、その負の世界から追放される「森」という負の世界。マイナス×マイナスという二重否定の力によって、「僕」の生の世界がプラスに転換していく可能性があるような形になっていて、これが最後に力ある物語のエンディングとなっているように思ったのです。

 「僕には僕の責任があるんだ」「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放(ほう)りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」と「影」に告げて、「僕」は「影」と別れます。その場面が心に残ります。

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 その『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について、村上春樹が「結果的にね。僕がいちばん考え込んでしまうのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。今だったらもっとうまく書けたよなと思う。あれはもっとあとで書いたほうがよかったかもしれない」と語っているのです。その理由が、私(小山)にわかるわけではありませんが、それを考えるよすがとして、いくつのことを挙げておきたいと思います。

 それは『海辺のカフカ』(2002年)について、文芸評論家の湯川豊さんと私(小山)でインタビューした時の村上春樹の言葉です。

 これはインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(2010年)に収録され、刊行されているので、この「村上春樹を読む」で紹介してもいいかと思います。

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 『海辺のカフカ』という作品は、当初『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編として構想された長編です。

 それについて、村上春樹は次のように語っていました。

 「もともとこの小説は『世界の終り』の続編として書こうと思って企画していたものなんです。ただ、あまりにも昔に書いたものなので、直接的な続編というのは無理だと思いました。だから違うもの、ただどこかでゆるく精神的に結びついているものを書こうと。そういうこともあって、最初から二つの話が並行して進んでいくという形式を取ろうと思っていたんですが、『海辺のカフカ』は確かにいわれるようにパラレル・ワールドではないですね。『世界の終り』は完全に違う世界で物事が進行していてそれが一つになるということだったんだけど、今回は同じ地上に起こってることを並行的に書いてるわけだから」

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 そして今回の「文庫版のためのちょっと長い対談」との関連で、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』について印象的な次のような発言があります。

 長いですが、引用してみます。

 「僕がこれまで書いたものでいちばん苦労したのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」の方のあの壁の中の街をどのように描写するかということでした。僕にとっては大変な問題であって、まず最初に「文學界」で「街と、その不確かな壁」という中編を書いて、どうしても納得できなくて、それは潰して、何年かかけてもう一度書いたわけです。あれを書く作業は僕にとってはいちばん大変な作業でした」

 さらに、こうも語っています。

 「『世界の終り』は結末を、僕も、どうつけていいかよくわからないところがあった。で、結局は「僕」が残って「影」が帰っていくという形になりますね。いまそれに関しては僕は別に全然後悔してなくて、それはたぶんそれで良かったんだろうと思っています。「僕」は森に行って住むんだろうと。そのときの僕にとってはそれがいちぼん正直な結論だったんです。

 でもいま書くと違うものになると思うし、カフカ君は影を抱えたまま帰っていきます。現在の僕が物語を書くとしたらそういう風にしか書けないと思う。それはやっぱり僕自身の世界観というか小説観みたいなものがたぶん変わってきたからだと思うんです。責任感というと簡単な話になっちゃうんだけど、物語に対する責任感というのかな。社会的な責任感、人間的な倫理的責任感というよりは、物語性に対する責任感みたいなものがあるのかなという風には思う。今回の結末に関してはまったく悩まなかったですね。

 『世界の終り』に関しては、「僕」にはまだ帰ってくるだけの力がなかったというのかなあ、物語的にね。あのときは、たぶん「僕」は森の中に入っていきたかったんだと思う、影だけは帰しておいて。そこで影を失ったまま生きてもいいと思っていたんだと思う、個人的に」

 そう語っているのです。

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 ここに、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の続編的な物語である『海辺のカフカ』を書こうとした際の、「僕」にとって「影」というものの大切さが、述べられています。つまり『海辺のカフカ』の側から、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を考えてみることが、村上春樹作品の在り方を考える上で大切なのかと思います。

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 もう1つ、2つ、『海辺のカフカ』を巡るインタビューでは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に関係した印象的な村上春樹の発言がありました。それは「悪」を巡る発言です。

 「悪ということについては、僕はずうっと考えていました。僕の小説が深みを持って広がりを持っていくためには、やはり、悪というものは不可欠だろうと、ちょっとしたきっかけのようなものがあって、ずうっと考えていたんです。どういう風に悪を描けばいいのかというようなことを考えているんです。そういう風にはっきり考え始めたのは、『世界の終り』を書いた後ですね。そこから悪というものが常に意識の中にあります」

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では「悪」の描き方が難しかったということでしょうか……。または「悪」を書こうとして、十分に書けなかったということでしょうか……。「悪」の問題を十分に把握できなかったということでしょうか……。

 ともかく、「悪」をどう描くかという村上春樹作品の重要な問題の出発点に、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が位置しているのです。

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 もう1つは、「重層的物語」の重要さということです。それについて、村上春樹はこんな発言をしていました。

 「僕がこれまでやってきたことは、どれだけ物語のドライブというのを引き出してその中に自分を乗っけて、どんどん、どんどん話を進めて、人物がどんな風に動いていくかというのが、命題だったわけです。それは『羊をめぐる冒険』に始まり、いろんな方法で書いて、たとえば『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では、観念的なところで話を進めて、『ノルウェイの森』では、完全なリアリズムで話を進めて、まあいろんな方法で試してきた。ひとことで言えば、とてもナチュラルに物語の力を借りていた。

 でもこれから先は、やはり、物語自身を複合化させるしかないかなという気はしてるんですよ。そういう風に一つの物語でものごとをどんどん推し進めていくということだけでは収まらなくなってきたかなあと思う。物語と物語を重層的に重ねて話を創っていくしかないのではないか」

 この延長線上に、『海辺のカフカ』や『1Q84』(2009年―2010年)が描かれていくのでしょう。

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 そして、私(小山)が村上春樹と初対面の時に書いたインタビュー記事の「壁に囲まれた街」からの脱出についてのことです。

 自己の二重否定を通しての脱出、「壁に囲まれた街」という負の世界(マイナス世界)。さらに、その負の世界から追放される「森」という負の世界。マイナス×マイナスという二重否定の力による、ポジティブな「僕」の世界が生まれていくという「脱出」と、最新長編である『騎士団長殺し』(2017年)の深くて暗い「穴」からの長い道を通っての「脱出」を考えてみると、『騎士団長殺し』での「脱出」は、マイナス×マイナスという二重否定の力という、いわば論理を反映したような力で物語を抜け出る形にはなっていないのです。長く続く暗闇の中をより深く、より格闘して、脱出するという形になっています。

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 ここで、村上春樹が「結果的にね。僕がいちばん考え込んでしまうのは、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。今だったらもっとうまく書けたよなと思う。あれはもっとあとで書いたほうがよかったかもしれない」と語っていることの理由を、私(小山)は記そうとしているわけではありません。

 そうではなくて、村上春樹の愛読者なら、そして『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品が好きなら、村上春樹が何を「いちばん考え込んでしまう」のかについて、思いを巡らせてみるのは、価値あることではないか思っているのです。

 つまり、村上春樹にとって、それほどこだわりのある重要な位置にある作品だということではないかと思います。

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 「村上春樹を読む」も今回で99回です。次は100回です。長く、長く書いてきたものだと思います。<来月はこれを書こう>と予定的に考えて書いた回は多くはないのですが、それでも書き続けられてきたことに、自分でも驚きを感じています。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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