ソ連軍将校と『奇妙な』同居 旧満州で特殊な体験

ロシア語を覚え対応 大嶋陽次さん(88)

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大連市で撮影した家族写真

 広島・長崎への原子爆弾投下と日本の敗戦から75年を迎えた。節目の年に当たり長崎新聞社が被爆・戦争体験を募集すると、「語り残したい」という人たちから多くの連絡があった。われわれは過去から何を学ぶことができるのか。体験を寄せてくれた人たちの声に耳を傾けた。

 長崎市西山台1丁目の大嶋陽次さん(88)は戦後、旧満州(中国東北部)から引き揚げてきた。「戦争の真実を知ることは平和をつくる大切な第一歩」。そんな思いから、旧満州での貴重で、特殊な体験を語ってくれた。
 長崎市で生まれた。1933(昭和8)年。2歳の時、父が大連市の関東逓信局に勤務することになり、両親とともに旧満州へ渡った。旧満州には最盛期、開拓団などとして移住した邦人約155万人がいた。
 31年9月の満州事変、37年7月の日中戦争開戦、そして41年12月の太平洋戦争開戦。日本は戦争一色に染まっていった。45年8月9日にはソ連軍が旧満州に侵攻。駐屯していた日本の陸軍「関東軍」は早々と撤退し、女性や子どもばかりが置き去りにされた。
 戦争が終結した時、大連二中の2年生だった。8月15日の昼休み、生徒たちが整列し玉音放送を聞いた。「日本は負けたのか?」。誰もが半信半疑だった。だが、旧満州の人々にとってはそれからが「悲劇」の始まりだった。
 ソ連軍が進駐すると、一気に治安が悪化。ソ連兵や暴徒化した中国人が押し寄せ、略奪や女性暴行が多発した。「奇妙」な出来事が起きたのはそんな時期だった。
 46年4月のある日。自宅の扉をたたく音がした。「中国人の襲撃か」。大嶋さんは身構えた。父は病床に伏し、母と幼い弟を守れるのは自分だけ。恐る恐る外を確認すると、口ひげをたくわえた1人の若いソ連軍将校が立っていた。
 「家の中を見せろ」。将校はロシア語で言った。当時、ソ連兵が日本人の住居を強制的に接収する「家狩り」が頻発していた。「病気の父がいる」と大嶋さんが身ぶりで伝えると、将校は「では、部屋を借りる」と言った。
 将校の名はニコライ。23歳。階級は中尉。その日から、ニコライをはじめ3人の将校が入れ代わり立ち代わり家にやって来た。黒パンや缶詰を食べてウオッカをあおり、泥のように眠ってはどこかへ出掛けた。
 相手は敵国の兵士。恐怖も屈辱もあった。それでも懸命にロシア語を覚え、彼らに対応した。生き延びるためだった。ソ連兵は「鬼畜」だと思っていた。しかし、日々接しているうちにそうではないと気付いた。それぞれに感情も個性もある「人間」だった。
 同居生活が約5カ月続いたある日の夜。ニコライが自宅を訪れ「ここを出て行くことになった」と言った。彼は大嶋さんの幼い弟の頭をポンポンと叩き、こう言った。「スパシーバ(ありがとう)」
 戦争はどうして起きるのか。誰の仕業なのか。大嶋さんは今も時々、彼らとの日々を思い返しながら考え込む。

ソ連軍将校たちとの生活を語る大嶋さん=長崎市西山台1丁目