鹿島ザーゴ新監督とは何者か?

鹿島アントラーズの新監督に就任した元ブラジル代表のアントニオ・カルロス・ザーゴ氏、かつて柏レイソルでもプレーし日本でも知名度が高い選手であった。今一度振り返ってみよう。

柏ではアントニオでプレー

ザーゴ氏はブラジルではアントニオ・カルロス、また柏ではアントニオで登録された。一般的にはローマ時代に「A.C.ZAGO」のユニネームでアントニオ・カルロス・ザーゴと呼ばれていた時を覚えている人が多いだろう。中田英寿のチームメイトでもあり、2000-01シーズンにワルテル・サムエル、ジョナタン・ゼビナと3バックを組みセリエA優勝(スクデット)を獲得したときのメンバーであった。特にチームメイトのエウゼビオ・ディ・フランチェスコと仲が良かったといい妻同士も友達だったのだという。

トップチームキャリアを始めたサンパウロ時代に活躍しすぐにブラジル代表デビュー。スペインのアルバセテでプレー後に一度は母国ブラジルへ戻りパルメイラス、柏レイソル、コリンチャンスとプレーし、その後再び海へ渡り、ローマ、ベジクタシュとプレーした。

1999年のコパ・アメリカ優勝メンバー

1993年を機に一度代表から呼ばれなくなっており、再び代表チームでプレーし始めたのは1998年と30歳を目前にしてから。1999年のコパ・アメリカでブラジル代表メンバーに選ばれ優勝を経験している。比較的遅咲きの選手という印象を持たれてしまうのはそうしたキャリアの晩年の方が注目を集めていたからだ。

2006年には60日間の出場停止も経験している。これはジュヴェントゥージ時代にグレミオの黒人選手ジェオヴァニオに対して人種差別を行ったからだ。

強さ、高さがありながらブラジル人らしい攻撃力を持ったセンターバックであった。自らは「今のローマだとフェデリコ・ファシオに近いがよりスピードがあった」と述べている。そのためか晩年のサントス時代は背番号「10」をつけてプレーしたこともある。

監督ザーゴの評価は?

さて、ここまで選手としてのザーゴ氏を見てきたが監督としてはどのような評価なのだろうか。

2008年にコリンチャンスのテクニカル・ディレクターとして裏方をスタートさせたザーゴ氏は、ロナウドと共に夜遊びへ行き当のロナウドは練習に遅刻(それが理由ではないと本人は否定しているが)解任をされる。その後、2009年にサン・カエターノで監督業に初挑戦する。以降、パルメイラス、アウダクス、モジミリン、インテルナシオナウ、レッドブル・ブラジルなど国内クラブで指揮をとっている。

だが、ヴァスコ・ダ・ガマでは上述の人種差別問題から監督就任がご破算になってもいる。平均すると1チームあたり約半年の指揮となっており、決して長いとは言えない。

また、一度はアシスタント・コーチとしてローマ、シャフタール・ドネツクでコーチングを行った。これはヨーロッパの戦術を学ぶためだったとも見られている。実際、ヨーロッパではUEFAのコーチライセンスを取得し、よく旅行してサッカーを見ていたという。

ゼーマン直伝?の攻撃サッカー

特にズデニェク・ゼーマンとはローマ時代に選手として指導を受け、そしてローマでアシスタント・コーチとして学ぶなど影響を多く受けている。

ゼーマンと言えば攻撃サッカーだけに鹿島でも同じ方向性を指し示すのだろうか。実際にレッドブル時代に『Globo』から受けたインタビューでは、「より攻撃的になるような選手を望んでいた」「私たちは常に数的優位を目指して努力している」とパスをつないでいきポゼッションを高めるサッカーを追求していることを明かしており、守備的な選手でも強さだけでなく視野やビルドアップ能力を要求していた。

ブラジル人の本質を探るポゼッション戦術

ブラジル全国選手権を見たものは知っているだろうが、ブラジル人選手は足元がうまい選手はいるものの、気候、労働条件、選手層の問題などから運動量は決して多くなくロングボール主体に守備的なカウンター戦術をとるチームが少なくない。

ザーゴ監督は「選手はボールと共にプレーすることは楽しいことでそれを追求すべき」「ブラジル人の本質はボールタッチ」と足元の技術を強調している。

だが、それは前時代的なものではない。ザーゴ監督の作るチームはサイドを広く開き、スペースを見つけるように選手は良く動く。そして、選手がボールをよく触る。しかし、ザーゴ監督はいう「ブラジルのチームはドリブルばかりしているというが、実際は2タッチの高速サッカーである。テレ・サンターナの時代からそれをやっていた」と。

また、コーナーキックでも大事なのはカウンターを受けないようにこぼれ球に対するポジショニングと語り、それを得点をすることよりも重視しているという。それもすべてはボールを保持する確率をあげてポゼッションを高めるためのものだ。

残るは契約の問題だが・・・

鹿島アントラーズのリリースでは「特に自分のアイドルだったジーコには、子供の時に良く試合を見て、魅了された一人でもあります。彼と仕事ができることは、特別なことです。」と述べている。ジーコTDの影響で日本へ復帰を決めたと考えるのは難しくない。

2019年はレッドブル・ブラジルで州選手権の5~8位から優勝チームを決めるカンピオナート・パウリスタ・インテリオールを優勝、その後にレッドブル・ブラガンチーノでセリエB優勝を経験、来年はブラジル全国選手権へ昇格していただけにチームは契約が未だ残っており違約金を払うべきと声明を出している。

簡単にいうとレッドブルお抱えのチームで未来へ向けた結果を出していたところに日本からのオファーがあり心が揺れたというところだろうか。契約問題があるにせよ、現役時代大物だった監督のJリーグ入りは新たな風を巻き起こすだろうか。

© 株式会社ファッションニュース通信社