1奪三振でノーヒットノーラン達成 西鉄で活躍した技巧派左腕、井上善夫氏が死去

井上善夫氏の現役通算成績

大エース稲尾が故障の影響で0勝に終わった1964年に17勝マーク

 昨年12月31日に死去した井上善夫氏は、全盛期を過ぎた西鉄ライオンズで、先発、救援で活躍した左腕投手だった。78歳だった。

 井上氏は1941年9月27日に山梨県で生まれる(以下敬称略)。同学年には元ヤクルト監督の武上四郎、巨人の5番打者の末次民夫らがいる。

 日大二高時代の1959年、春夏の甲子園に出場。春は1回戦で岐阜商に敗れたが、夏は準々決勝まで進んだ。当時としては大柄の180センチの本格派左腕として注目され、1960年に西鉄ライオンズに入団。即戦力と期待された。

 この時期の西鉄はエース稲尾和久、左腕畑隆幸、若生忠男、島原幸雄らの投手が揃っていたが、実質的に「稲尾のチーム」と言ってよかった。

 稲尾は1960年は28勝、そして翌61年にはNPBタイ記録の42勝を挙げる。登板数もチーム試合数の過半数の78試合。井上は先発の谷間を埋めるとともに救援投手としても活躍した。

 しかし稲尾は1963年に28勝を挙げるも、翌1964年は右ひじを痛めて0勝。以後衰える。

通算47勝58敗、オールスターにも出場

 そんな中で井上は1964年、17勝を挙げてエース格となった。この年の5月16日、平和台球場での阪急戦で、井上はノーヒットノーランを記録。史上38人目、パ・リーグでは6人目の快挙だった。

 許した走者は四球と失策の2人だけ。この試合の奪三振はわずか1個。入団当初は球威で押すタイプだったが、この時期にはスライダー、カーブなどの球種で打たせて取る技巧派になっていた。スリークォーターでキレのあるボールを投げた。

 この年はオールスターにも選出され、第3戦に登板した。ローテーションが確立していない当時の西鉄で、井上は60試合に登板。29回先発するとともに17回も完了試合を記録した。

 翌1965年も11勝を挙げるが、登板過多の影響か翌年以降成績が急落する。1968年には、巨人にトレードされるが、V9時代の巨人ではほとんど出番がなく、1969年に自由契約となり、広島に移籍。以後、3シーズン主として救援で投げて1971年に引退した。30歳だった。広島では左打者へのワンポイントリリーフが中心だった。

 通算成績は379試合47勝58敗、1080回2/3を投げて612奪三振、防御率3.39。オールスター出場1回。

 打撃も良く、通算2本塁打19打点を挙げている。1962年には40打数10安打1本塁打10打点、打率.250と打者顔負けの成績を記録した。1961年には外野を3試合守っている。

 引退後は野球界を離れ、東京都内で飲食業を営んだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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