エリート軍人が直面した壁の崩れる瞬間  「国が消えた」苦い思い今も ベルリンの壁崩壊30年(1)

 東西冷戦の最前線だった1989年11月のドイツ・ベルリンの壁崩壊から30年以上がたった。翌90年には社会主義の東ドイツと資本主義の西ドイツが統一。政治体制の異なる両国が一つになる壮大な試みが始まった。だが、旧東ドイツ地域では今も経済情勢が西に追い付かず、人口流出や右派政党の台頭などさまざまな問題を抱える。多くの人生を一変させた壁崩壊。人々はその後の世界をどう生きたのか、3回続きで報告する。(共同通信=森岡隆)

1989年11月9日、東西ドイツの国境開放後にベルリン・ブランデンブルク門前の「ベルリンの壁」の上に立つ人々(DPA提供・AP=共同)

 ▽「この国は終わりです」

  あの夜の緊迫した電話は今も忘れない。89年11月9日、東ドイツの首都、東ベルリンの国境検問所。東ドイツ市民の波は一気に増えていった。ゲートの先は西ドイツの飛び地、西ベルリンだ。「ものすごい人数だ。支えきれない。人々を通すぞ」。出国を管理する検問所詰めの東ドイツ秘密警察(シュタージ)将校が電話口で叫んだ。群衆がゲートを越え、西に駆けだしていく。東西ドイツを28年隔てたベルリンの壁が崩れた瞬間だった。人々は歓喜し、壁崩壊の知らせは世界を巡った。

 電話を受けたのは東ドイツ国境警備隊のフリートヨーフ・バニシュ大佐(72)だった。当時42歳。東ベルリン近郊の司令部で勤務していた。数時間前に東ドイツ政府高官が記者会見で、自国民の西ドイツ出国を可能にする措置が即時適用されることになったと誤って発表し、東ドイツ市民が検問所に殺到したのだ。

 バニシュ氏もテレビで会見を見ていたが、壁崩壊につながる発言だと予想できなかった。「この国は終わりです。われわれは望まない道を歩むことになるでしょう」。上司の将官に伝えた。社会主義国、東ドイツの国境を20年間守ってきたエリート軍人として苦い失意を感じた。

ベルリンの壁崩壊と東西ドイツ統一を経て、一変した人生を振り返るフリートヨーフ・バニシュ氏=2019年9月、ドイツ東部ツォッセン(共同)

 ▽国境線守るエリート軍人から失業者へ

 バニシュ氏は47年、東ドイツの小さな村で生まれた。第2次大戦の傷痕は生々しかった。近所の男性は戦争で左腕を失い、別の男性は右腕、祖父は片目がなかった。父は潜水艦に乗り組み、辛くも生き残った。「軍国主義は絶対にごめんだ」と子供心に思った。

 東ドイツを率いる社会主義統一党(共産党)の党員だった父の知人にあこがれ、16歳で入党した。高校を出て国境警備隊の士官学校で学び、冷戦のまっただ中、東西ドイツが対峙(たいじ)する国境線に立った。重要任務は国民の西ドイツへの越境を止めることで、自らの手で逃亡者を捕らえた。兵士の銃撃による死者も出ていた。

 東西ドイツの国境線は全長約1400キロ。49年の東ドイツ建国以来、自由を求めて西ドイツに逃げる国民は後を絶たなかった。東ドイツは国境を障害物で固め、61年には最後に残った西ベルリンを取り囲む長さ約155キロの壁を建設。全土で約5万人の国境警備隊兵士が日夜、目を光らせた。東ドイツ時代の約40年間、東西国境とベルリンの壁で命を落とした人は事故を含め400人を超す。

 バニシュ氏にとって言葉や文化を共有する西ドイツの国民は敵と思えなかったが、政治体制は「敵」だった。旧ソ連の軍大学にも留学し、軍務に疑念を抱いたことはなかった。

東ドイツ市民が西側への出国を制限されていた「ベルリンの壁」=1989年11月6日、西ベルリン・クロイツベルク地区(ロイター=共同)

 だが、ソ連は80年代末、改革路線を進め、東ドイツでも民主化要求の大規模デモが起きていた。そしてあの晩、体制を支えた壁が不意に崩れた。翌90年には西ドイツにのみ込まれる形で東ドイツ自体が消滅し、バニシュ氏は妻と2人の子を抱える失業者になった。誇りだった軍服を着ることはもうない。人格の一部を奪われたようで「精神的に打ちのめされた」。

 ▽望んでいた社会、なぜ消えた

 かつての「敵国」の社会制度の下で、第二の人生が始まった。若い世代は新たな時代に対応できたが、中高年の元同僚は満足のいく収入を得るのに苦労していた。バニシュ氏は得意のロシア語を使ってロシア人相手の商売を始めたが失敗。その後、東ドイツになかった野生動物公園の立ち上げを思い付き、経営を学んで運営を軌道に乗せた。

 ただ、東の地域は今も西との経済格差を埋められずにいる。東の給与水準は西の8割余り。失業率も西の4パーセント台に比べ6パーセント台だ。就職機会や好待遇を求めて若者や医師、看護師ら専門職が次々と西に流出する。最近の調査では東の半数以上の人が自らを「2級市民」と感じると答えた。

 東部ツォッセンを拠点に元の軍人仲間と連絡を取り合うバニシュ氏は「東の人間は統一ドイツに適応しようと頑張ってきたのに」と声を落とす。

 東ドイツに忠実だった人々からは今も、ベルリンの壁は体制を守るために必要だったとの声が上がる。バニシュ氏も東西の国境がなくなって良かったと思う一方、壁建設は「必要な措置だった」との意見だ。

 統一後の社会で、東ドイツを支えた人々は厳しい視線にさらされてきた。国境警備隊司令部の建物は解体され、バニシュ氏は「元敵国の軍人」として差別も感じた。

 東ドイツ時代に戻りたいとは思わない。だが、今暮らすのは予想もできなかった社会で「自分が望んだ姿ではない」。東ドイツはなぜ消えてしまったのか。バニシュ氏は答えのない問いを今も繰り返している。(続く)

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