「父は密告者だった」家族崩壊の傷深く  東の監視社会、犯人野放しに ベルリンの壁崩壊30年(2)  

 信じられない気持ちで書面を読み進めた。友人らの名前や彼らと会った時期が記され、兄の結婚式で出席者が何を語ったのかも詳細に書かれていた。東ドイツの秘密警察(シュタージ)が作成した自分自身に関する調査文書。1500ページを超え、日常が暴かれていた。誰がシュタージに伝えたのか―。そして気付いた。密告したのは父だった。(共同通信=森岡隆)

1989年11月、東ドイツ政府の国境開放後、東側からベルリンの壁をよじ登る市民たち(ロイター=共同)

 ▽外国への憧れ、その先に待っていたもの

 アンドレアス・メールシュトイブルさん(54)は1992年、自分の調査文書に初めて目を通した。東西ドイツ統一から2年たち、本人の閲覧が可能になった。東ドイツに生まれ、体制拒絶を意味する母国からの出国を申請し、当局から圧力を受けていた。西ドイツへの脱出を図った過去もある。自分の文書が存在するのは分かっていたが、父の密告は予期しなかった。自宅の電話も盗聴され、全ては筒抜けになっていた。崩れ落ちそうだった。

 シュタージは反体制派摘発のため、国民を徹底的に監視し、一般市民を情報提供者に仕立てていた。父はシュタージに頼まれ、協力を約束したのだ。「自分も兄も父との関係を絶った。母は苦しんだと思う。家族が崩壊したのだから」

 メールシュトイブルさんは幼い頃から外の世界に憧れ、外国に行ってみたかった。しかし、東ドイツ人が旅行できるのは東欧などの社会主義国だけ。遠くに行きたいと応募した船員の職も学業不振で不採用になった。当時、20歳を過ぎた頃だった。兵役が迫る中、鳥かごに閉じ込められたような母国に残る理由はなかった。

 国を捨てて西ドイツに行こう。87年6月、誰にも相談せず、東ドイツの同盟国で西ドイツと接するチェコスロバキアに列車で向かった。東西ドイツ国境より逃げやすいかもしれない。国境の警備態勢を見たことはなかったが、単純にそう考えた。

東西ベルリン間の検問所跡地に立ち、東ドイツへの複雑な思いを語るアンドレアス・メールシュトイブルさん=2019年9月、ベルリン(共同)

 列車を降りてコンパスを手にチェコの国境地帯の森を歩き続け、朝早く西ドイツとの国境にたどり着いた。監視塔が立ち、金属柵が幾重にも巡らされていた。あまりの警戒ぶりに驚いたが、意を決して進む。二つの金属柵を工具で切断して越えた。その時、車のブレーキ音が響き、とっさに伏せた。万事休す。射殺は免れたが、チェコの国境警備隊兵士に捕まった。

 ▽自由を手に、でも喜びなく

 東ドイツに送還され、シュタージの勾留施設で尋問が始まった。共犯者は誰だ―。仲間はいなかったが、取り調べは執拗(しつよう)だった。連日続く睡眠、尋問、食事のサイクル。国外逃亡を試みたとして有罪判決を受けた。刑務所生活を経て88年、西ドイツへの出国を許され、同国の飛び地だった西ベルリンに移った。

 89年、ベルリンの壁が崩壊し、西ベルリンの通りは東ドイツの車で埋め尽くされた。ようやく自由を手にしたのに「東ドイツを賛美したり、西に逃げようとした国民を撃ったりした人間が自由に西に来られると思うと我慢がならなかった」。喜びは全くなかった。

 あれから30年。統一後のドイツで、東の元最高幹部の一部は西に逃げようとした自国民の射殺事件に関与したとして、殺人罪で実刑判決を受けた。

 シュタージは壁崩壊時、9万1千人の正職員と国民の90人に1人に当たる約19万人の情報提供者網を国内全土に抱えていた。だが、法的責任を問われたのはごく一部で、その処分も罰金刑など軽いものが大半を占めた。東ドイツの法の下では違法行為でなかったり、犯罪の証明が困難だったりしたためだ。

 約40年続いた東ドイツ時代、政治犯として拘束された国民は推計約20万人に上る。メールシュトイブルさんは「多くの人生を不幸に追いやった人間が今も野放しだ」と訴える。

東ドイツ秘密警察本部跡で、同国の歴史について説明を受ける市民ら=19年11月、ベルリン(共同)

 ▽私は許さない

 東ドイツで育ち、研究所勤務の物理学者として東ベルリンの壁近くで暮らしたメルケル首相は2019年の演説で「壁崩壊は自分にとって幸せの瞬間だった」と話し、壁の向こうの自由に思いをはせていたと振り返った。

 メールシュトイブルさんの心中は複雑だ。ソーシャルワーカーなどとして働いて家庭を築き、各国を旅した。人生には満足している。ただ、過去の追及は忘れ去られ、東にまつわる苦い思いは頭を離れない。

 父とは西ドイツに行こうとした頃から、もう30年以上、会っていない。シュタージに協力した父。職場の同僚が周囲の人間を密告するのはまだ想像できる。しかし、父がどうすれば息子を密告できるのか―。「壁崩壊から30年がたち、みんな昔を忘れてしまった。私は東ドイツの体制を支えた人間を絶対に許さない。そして、父と会うこともないだろう」(続く)

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