<未来に伝える沖縄戦>捕虜になりハワイ移送 渡口彦信さん(93)

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 本部町備瀬で生まれ、嘉手納で育った渡口彦信さん(93)=読谷村古堅=は、県立農林学校3年の時、戦場に動員されました。糸満の摩文仁で捕虜になり、ハワイの収容所で1年半を過ごしました。渡口さんの話を、北谷町立北谷中学校2年の花城しおりさん(14)、奥間葉月さん(14)、黒坂実花さん(13)が聞きました。

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 《1944年、渡口さんが通う県立農林学校は日本軍の兵舎になり、生徒は陣地構築に駆り出されます》
 13歳の時、父親が嘉手納で万年筆店を開いたため、家族で嘉手納に引っ越しました。42年に県立農林学校に入学し、2年生まで順調に勉強しました。
 44年7月、サイパンが陥落します。沖縄も危ないということで、本土から多くの軍隊が沖縄に駐屯し、県立農林学校の校舎も日本軍の兵舎として使われました。3年生になった頃には戦争も激しくなり、授業の代わりに座喜味城跡まで日本軍の陣地構築に駆り出されました。戦争に勝つためだったので、当然のことだと思っていました。
 私は特攻隊に憧れていました。3年生の時、予科練の試験を受けるため県営鉄道で那覇に行きました。しかし身長が5センチ足りず、落ちてしまいました。悲しくて悔しくて、帰りの鉄道でしくしく泣きました。
 家に帰っても涙が止まらず、布団に潜り込み、涙で布団が濡れるほど泣きました。当時の軍事教育で洗脳されていたのでしょう。「国のため」と言われれば、誰も文句を言いません。私の両親も私が戦争に行くことを当然のことだと思っていました。
 《45年3月、当時18歳の渡口さんは徴兵されます》
 戦局の悪化で、徴兵検査が20歳から18歳に引き下げられました。私は3月23日に卒業を控えていましたが、3月1日、那覇市立商業学校(現那覇商業高校)に駐屯していた日本軍の高射砲中隊に入隊します。覚悟はできていたので、ためらいはありませんでした。私の同級生は誰も卒業証書を持っていません。
 入隊から程なく、3月23日、沖縄本島は早朝から激しい空爆に見舞われました。撤退を余儀なくされ、3月24日ごろ、部隊は那覇市牧志の壕に移ります。上陸した米軍との激闘が続く4月中旬、同じ部隊の少尉、太田博さんが壕の中で、私たち少年兵に詩を書いた紙切れを渡しました。軍歌ではなく、情緒豊かで平和的な詩でした。
 18歳の私たちは暗い壕の中で寂しく、いつ敵が来るか分からない恐怖感がありました。しかし、詩を皆で歌っている間は、恐怖感も忘れ、壕の中は明るくなりました。太田さんとはその後、糸満の壕の前で別れましたが、後に戦死したことを知りました。
※続きは1月15日付紙面をご覧ください。