「現代文」が「論理国語」「文学国語」に! 文学離れは本当に起きるのか

高等学校の学習指導要領が大幅に改訂され、「現代文」から「論理国語」「文学国語」に代わることで、さまざまなところで論争が巻き起こっています。どこに問題があるのでしょうか?

  • 「現代文」が「論理国語」と「文学国語」の選択授業に。
  • 高校生は「論理国語」「文学国語」両方選択すべき。
  • 逆に「話す力」「書く力」を高校生で学ぶ必要はない。

これまでの【出口式「論理エンジン」の考え方】はこちら

「現代文」が「論理国語」と「文学国語」との選択に

2020年、高等学校の学習指導要領が大幅に改訂されます。文科省のいう改革の本丸。今までの「現代文」という科目がなくなり、「論理国語」と「文学国語」との選択となります。

それに対して、週刊誌AERAや月刊誌文学界などでは次々と特集を組み、批判を繰り返しています。「論理国語」と「文学国語」が選択科目となったところで、受験を意識したほとんどの高校では「論理国語」を選択するのではないか、その結果「山月記」「こころ」などの文学作品が子どもたちの眼に触れる機会がなくなるのでは、という批判です。また文学作品でも、論理力を鍛えられるという論も展開されています。

その一方、既存の曖昧な国語の授業は現に役立っていないので、論理的に国語を教えることには大きな意味があるとする論も数多く展開されています。

これらに関して私見を述べると、まず「現代文」という科目が解体され、その結果「論理国語」という科目が登場しました。今までの現代文や国語では、子どもたちにどんな力をどのような方法で鍛えるのか、そのあたりが曖昧で、教師の恣意的な判断に任せられた結果、現実問題として現代文という科目がほとんど機能していませんでした。

私は四十年前にすでに現代文を論理の教科と位置づけ、子どもたちの論理力を鍛える講義を実践してきました。そういった意味では、現代文が「論理国語」と「文学国語」に分かれたということは、文学以外の国語はすべて論理的な力を鍛えるものであることが国の方針として決定されたということで、私から言わせれば、ここに至るまで四十年かかったわけです。

高校生にとっては「論理国語」も「文学国語」も大切

ですが、そこに問題がないわけではありません。一つは、「論理国語」が必須ではなく、「文学国語」との選択になったこと。もちろん選択科目を複数履修することも可能ですが、大方の高校では「論理国語」しか履修しないのではないかと推測され、そのため国語から文学が消えるといった批判が巻き起こったのです。

私は高校生にとっては、どちらも大切だと考えます。「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探求」と国語を四つに分割することは、それぞれの科目の役割が明確になり、従来の曖昧さを排除できるのではないでしょうか。その上で「論理国語」を四単位として、国語教育の中核に置き、他の科目をそれぞれ二単位にします。なぜなら論理力を修得しない限り、文学作品や古文、漢文の読解、鑑賞も、国語表現も大した効果が期待できないからです。

もしそれだけの単位が用意できないのなら、英語の単位を削ればいいのです(日本人の英会話コンプレックスはなんとかならないものでしょうか)。

「論理国語」の新学習指導要領内容の問題

もう一つの問題は、新学習指導要領に記載された「論理国語」の内容です。文科省の選択科目概要説明では、「論理国語」を「実社会において必要になる、論理的に書いたり批判的に読んだりする力の育成を重視した科目」「社会的な話題に関する論説文や資料を読み、自分の考えを論述したり討論したりする」「複数の文章を読み比べて論じる」の三点となっています。

二番目にある「論説文や資料を読み」という部分は、既存の「現代文」となんら変わりありません。むしろ論理を意識させる記述になっている分だけ改良だと言えます。

既存の「現代文」との相違点は、一つ目の「実社会において必要になる」、二つ目の「自分の考えを論述したり討論したりする」、三つ目の「複数の文章を読み比べる」と明記されたことです。

この中での問題点は、一つ目の実用的な文章の重視です。しかも「プレ共通試験」に駐車場の契約書の読解が出題されたことにより、「論理国語」が契約書を理解するための実用的な読解力の養成でいいのかという批判が巻き起こりました。

たしかに子どもたちの読解力の低下ははなはだしく、契約書、説明書を理解できない子どもたちが増えている現状を考えると、実用的な文章の読解力を養成することは必要です。しかし、これらの国語力はすでに小学校、中学校の新学習要領で実践されていることであり、実際公立高校の入試問題のほとんどが実用的な文章の問題を出題しています。こうした読解力は中学生までで十分で、高校生はやはり思考力を養成するような、深い内容の文章の読解でいいのではないでしょうか。

「話す力」「書く力」を高校生に指導する必要があるのか

また既存の「読む力」を中心とした教科書から、「話す力」「書く力」を重視した方針が指導要領から読み取れますが、これは英語の四技能の影響ではないでしょうか。「話す力」も中学までで国語教材で大きく扱われていて、高校生にまでそれを指導する必要が本当にあるのでしょうか。もう一度検討する必要があると思います。たとえば「書く力」は「国語表現」で十分なのです。

結論としては、中学生までで実用的な文章の読み書き、あるいは、論理的に話す能力を鍛え、高校生になると思考力を鍛えるような深い文章を、文学作品も含めて読解する力を養成すべきです。高度な論理力はまず「読む」ことを徹底すべきなのです。

この記事が気に入ったら「いいね!」をクリック!バレッドプレス(VALED PRESS)の最新情報をお届けします!

出口式 論理力養成講座 | バレッドアカデミー オンラインで学べるeラーニング受講サイト

これまでの【出口式「論理エンジン」の考え方】はこちら

出口式「論理エンジン」の考え方 - バレッドプレス(VALED PRESS)

© Valed.press