バーソン・マーステラ創業者のハロルド・バーソンが98歳で死去

20世紀のPR業界で最も影響力のある人物と評される

ニューヨーク--(BUSINESS WIRE)--(ビジネスワイヤ) -- かつてはメンフィスの新聞社でコラムインチあたり14セントの原稿料で記者として働き、欧州の米国軍放送網でニュルンベルク裁判について報道し、たった一人で始めたコンサルト業を1983年には世界最大規模のパブリック・リレーションズ(PR)会社へと成長させたハロルド・バーソンが、2020年1月10日に死去しました。98歳でした。

バーソンは、PRという仕事を零細産業から何千人もの従業員が働くグローバル・ビジネスへと変容させる上で、主導的な役割を果たしました。1988年にバーソン・マーステラの最高経営責任者(CEO)を退任しましたが、四半世紀以上にわたり現役として役割を果たし、90歳を超えてもほぼ毎日出社していました。

1999年に、大手PR業界誌「PRウィーク」の調査で、バーソンは「今世紀のPR業界で最も影響力のある人物」に選ばれました。この評価は、企業最高経営責任者や政府高官、公共機関の責任者にとっての助言者や相談相手としてのバーソンの役割を表していました。

PRウィークは、以下の言葉を寄せました。

「今日(1999年)の世界で最大のPR代理店を築き上げたバーソン・マーステラ会長のハロルド・バーソン氏の貢献は、その他多くの点においても測り知れないものがある。バーソン氏は統合マーケティングのコンセプトを、この言葉が発明される何十年も前に実践し始めた。氏は、ヤング&ルビカムでPRを広告ビジネスに匹敵するビジネスへと引き上げたが、これほどの偉業はいまだに達成されていないと言って差し支えないだろう。バーソン氏のトレーニング・プログラム開発は業界の基準となったが、他の代理店がこの基準に追いついたのはつい最近のことである。氏は各種プログラム、業界団体、大学、慈善団体へ個人的に資金を提供して支援し、この業界の向上を図った。才能ある人材への氏の指導は、バーソンPR代理店の社外で数々の新進企業を生み出した。独自のバーソン文化を作り上げ、その文化は今でもかつての従業員たちを結びつけている。最後になるが大事なことは、氏の個人的な助言が多数のフォーチュン100企業と世界の経営幹部の思想に影響したということだ。」

バーソンは、社会的存在としての社会における企業の役割の強力な唱道者として、企業の使命は公正な価格で質の良い製品を提供することだと主張し、報酬や退職金の面で従業員を公平に処遇し、サプライヤーと公正な取引を行い、事業を運営する地域での重要なコミュニティー活動を支援し、投資に対する公正な利益還元で株主に報いました。しかしバーソンは、企業の第一の目標は社会的存在としての責任に対する資金を確保するために利益を上げることだと戒めました。

バーソンは1921年2月15日に米国テネシー州メンフィスに生まれました。英国ヨークシャーのリーズからの移民の息子であったバーソンは、第3学年から学校を始め、15歳で高校を卒業しました。メンフィス・コマーシャル・アピール紙のキャンパス特約記者の仕事で学費と生活費を賄えることを知り、ミシシッピ大学に入学しました。卒業して半年後、大手工学・建築企業のPR担当の仕事に就き、バーソンによれば、そこは「週25ドルから50ドルへ給料を倍にして車も使わせてくれた」会社でした。

バーソンは1943年に米国陸軍へ入隊し、欧州の戦闘工兵部隊の一員となりました。1945年には欧州での終戦のひと月前、米国軍放送網の報道員に配属されました。

1945年後半、バーソンはニュルンベルク裁判について報道する任務を課せられ、公判期間中、米国の主任検事であったロバート・H・ジャクソン陪席判事にインタビューを行った唯一の記者となりました。ジャクソン判事はインタビューには応じないと明言していましたが、バーソンはラジオの聴取者である戦争で闘った米国兵は、米国主任検事から直に話を聞く権利があると主張しました。ニュルンベルク裁判開始時24歳だったバーソンは、この歴史的な裁判について報じた記者のうち生存する最後の一人だったと言われています。

1946年の陸軍除隊後、バーソンはニューヨークでPR会社を立ち上げました。会社は、「クライアントの事務所の中の狭い隅っこ」に置かれ、パートタイムの役員付きアシスタントのデスクが隣りにありました。競争力の意味での「差別化」という言葉を聞いたことがなかったバーソンは、自らの会社を企業間取引企業を専門とする会社だと説明しました。陸軍に従軍する前にバーソンが働いていた会社はこの業態に属しており、バーソンはPRコンサルタントを雇っている企業間取引企業が少ないことに、すぐに気が付きました。

1952年、バーソンの会社が従業員5人を抱えていた時、「ニューヨーク・タイムズ」紙に勤める友人が、シカゴの広告代理店オーナーからの問い合わせに答えてバーソンをピッツバーグでのプロジェクトに推薦しました。バーソンはこの機会を通じて、65年もの間自分の名前とハイフンでつながることになるウィリアム・A(ビル)・マーステラと出会いました。バーソンの会社は、ロックウェル・マニュファクチャリング・カンパニーによる企業幹部の出張用ヘリコプターの初めての購入を宣伝するプロジェクトに採用されました。ロックウェルは後に、正式なクライアントになりました。

その後間もなく、マーステラがバーソンを別のクライアントであるクラーク・イクイップメント・カンパニーの最高経営責任者へ紹介したことで、さらに多くの取引につながりました。マーステラとの協力関係は非常に良い効果を生んでいたため、バーソンは両者が共同で所有する新会社の設立を提案しました。1953年3月2日にバーソン・マーステラの名を冠した新会社を開業し、ニューヨークとシカゴにオフィスを構え、こうしたサービスの先駆けとして、企業間取引を行うクライアントへ「統合コミュニケーション・サービス」を提供しました。

バーソンはスピーチや記事で、会社の急速な成長のきっかけとなった2つの「決定的瞬間」について触れています。最初のきっかけは1950年代後半の欧州共同市場の創出です。バーソンの会社は、欧州(スイス・ジュネーブ、1961年初頭)にオフィスを構えた2番目の企業となり、次の四半世紀で世界的展開を図る意向を公にしました。米国のPR業界ではまだ多数の会社の一つに過ぎない存在でしたが、バーソン・マーステラは「もう一つの国際的PR会社」として知られるようになりました。年間売上高は1960年代の間に10倍に増え、41万ドルから440万ドルへ増加しました。

会社の2つめの決定的瞬間は、1970年にゼネラルモーターズ(GM)によって独占PR顧問に選ばれたことです。これは、盛んに宣伝されていたGMの「シボレー・コルヴェア」の安全性への疑いについて公益の番人を自認していたラルフ・ネーダーの著書で鋭く指摘された後にGMが私立探偵を雇ってネーダーを尾行させたという申し立てへの対応でした。GMの最高経営責任者(CEO)が米国連邦議会委員会での証言のために召喚されたことを受け、GMは取締役会の指示により、経営陣の相談役として社外PR会社を採用しました。バーソン・マーステラは米国の大企業2社を抑えてこの任務に選ばれ、その後10年以上任務に従事しました。

1970年代に、バーソン・マーステラの売上高は520万ドルから2830万ドルに増えました。欧州(ロンドン、パリ、ブリュッセル、フランクフルト)やアジア(香港、東京、シンガポール)を含め10数カ所の新オフィスを追加で開設し、クライアントは米国の多国籍企業と各国企業の両方を含むようになりました。

1979年にバーソンは、バーソン・マーステラおよびマーステラ・アドバタイジングと、世界的な大手広告代理店のヤング&ルビカムとの合併を企図し、7人から成る同社の執行委員会に加わりました。合併時点のバーソン・マーステラの売上高は2830万ドルに上り、オフィス16カ所を有していました。4年後、バーソン・マーステラが世界最大のPR会社となった際には、売上高6380万ドル、オフィスは中南米、オーストラリア、中東を含む30カ所になっていました。

バーソン・マーステラの専門の1つは危機管理であり、事例として、危機的状況における企業管理のモデルとして頻繁に言及される1982年と1985年のタイレノールの大規模リコールや、1985年に起きた鳴り物入りの「ニュー・コーク」の登場とコカ・コーラ・クラシックの再発売などがあります。この出来事にはバーソン自身が重要人物として関わっていましたが、「ニュー・コーク」の大失敗とコカ・コーラ・クラシックの再発売の後、バーソンはこの経験を「ボールが木にぶつかった後でホールインワンを決めたようなもの」と述懐しました。バーソン・マーステラは、ボパール(インド)の化学工場から有毒物質が漏出した事故の余波の中にあったユニオン・カーバイド、ロッカビー(スコットランド)での墜落事故後のパンナム航空、米国食品医薬品局がシリコーン乳房インプラント使用禁止を決定した際のダウコーニングの代理も務めました。また、オリンピック大会とその協賛企業の代理業務で、長きにわたり積極的な役割を果たしてきました。

バーソンはさまざまなPR団体より数々の賞を受けてきました。これには、米国パブリック・リレーションズ協会による栄誉の殿堂入りやアーサー・W・ペイジ協会、PRウィーク、PRニュース、インスティチュート・オブ・パブリック・リレーションズ、アラン・キャンベル・ジョンソン・アワード(英国)からの受賞、さらに米国、欧州、中国のカレッジや大学からの多数の評価が含まれます。1988年にボストン大学より名誉学位を贈られ、1995年にはパブリック・リレーション学でバーソンの名を冠したチェアーが設立されました。また、母校のミシシッピ大学でも栄誉の殿堂入りを果たし、エルビス・プレスリーと共にメンフィスのヒュームズ高校栄誉の殿堂に入っています。

バーソンは舞台芸術のためのジョン・F・ケネディ・センターを中心に、多数の公益団体で活動しました。1976年にはケネディ・センター・プロダクションズの理事として、テラス・シアター建設のために、独立二百年記念の日本からの300万ドルの贈呈に関する交渉に当たりました。また、1977年のケネディ・センター・コーポレート・ファンド設立でも重要な役割を果たしました。

バーソンのもう一つの関心事は経済教育でした。1990年代初頭には経済教育協議会の会長を務め、ニューヨーク経済クラブでは2007年に行われた100周年ディナーのチェアマンを務めるなど1979年よりメンバーとして活動しました。バーソンはディナーと共に、クラブ寄付基金の設立に1万ドル以上を寄付した賛助会員から成るセンテニアル・ソサエティーの創立を提案しました。

バーソンは大統領よりワシントンの芸術委員会の委員に任命され、1980年代には、後にベトナム戦争戦没者慰霊碑の建立とペンシルベニア・アベニュー再開発へとつながった協議の際に委員を務めていました。また、第二次レーガン政権とジョージ・H・W・ブッシュ大統領の下で、米国文化情報局の広報諮問委員会委員長を務めました。

近年では、独立革命の全歴史に関する初の博物館である米国独立革命博物館の評議会委員、さらにアイゼンハワー記念委員会の諮問委員も務めました。

党派政治に関与したことはありませんでしたが、ロナルド・レーガン大統領が退任した後、レーガン氏のPR顧問を引き受けていました。これは、無償を条件として行われました。

2017年に96歳で自伝「THE BUSINESS OF PERSUASION: Harold Burson on Public Relations」(ロゼッタブックス)を出版しました。

バーソンはベット・フォスター・バーソンと約63年間の結婚生活を送りました。バーソンの遺族は2人の息子のスコット・F・バーソン(配偶者:ウェンディ・リーボウ・バーソン)(マサチューセッツ州レキシントン在住)とマーク・バーソン(配偶者:エレン・ジョーンズ・バーソン)(カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジ在住)、および5人の孫のアリソン・バーソン、エスター・バーソン、ウィン・F・バーソン(配偶者:スティーブン・カテロン)、ホリー・バーソン、およびケリー・バーソンです。

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BCWについて

BCW(バーソン・コーン&ウルフ)は世界最大のフルサービス・グローバル・コミュニケーション代理店の1社で、お客さまのために人を動かすことを業務としています。バーソン・マーステラとコーン&ウルフの合併によって設立されたBCWは、アーンド・メディアに根ざしたデジタル主導かつデータ主導のクリエイティブ・コンテンツと統合コミュニケーションプログラムを提供し、B2B、消費者、企業、危機管理、CSR、ヘルスケア、公共問題、技術分野の顧客を対象に、全チャネルで大規模に展開しています。BCWは、クリエイティブな変革企業であるWPP(NYSE:WPP)傘下の企業です。詳細については、www.bcw-global.comをご覧ください。

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