なぜ通説が生まれたのか シーボルト事件「座礁で発覚」否定裏付ける史料発見 幕府内部対立、外交問題… 複眼的な研究必要

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昨年発見されたシーボルト事件に関する史料の一部(長崎学研究所提供)

 シーボルト事件は、国禁の日本地図などを積んだ船の座礁により発覚したという通説が長年知られてきた。しかし、1996年に、横浜薬科大教授(現在)の梶輝行さんがオランダ商館長の日記を基に通説を否定する論文を発表。昨年見つかった新たな史料もそれを裏付けている。「座礁事件で発覚」という通説は、どうして生まれたのだろうか-。

 通説はこうだ。1828年9月、オランダ商館医・シーボルトが帰国のために乗船予定だった蘭船が、暴風雨(シーボルト台風)により長崎港で座礁。積み荷を降ろしたところ禁制品が次々に見つかり、後に多くの人が処罰される一大事件へ発展した-。

 ■伝聞、脚色

 梶さんによると通説の論拠とされたのが、江戸期の国学者・中島広足の「樺島浪風記」。暴風雨の去った2日後に長崎を訪れて被害を目撃していた中島は、後年同著で「こたびの大風は、まさしく神風なり(略)船をふきあげられしかば、(略)つみ入れたる物どもとりおろし、とかくせらるゝついでに、さるもの(禁制品)どもみなあらはれ出て…」と記し、蘭船による国防機密の海外流出に警鐘を鳴らした。
 長崎市長崎学研究所の藤本健太郎学芸員は「国学者である広足は、外国人が日本で活動することを良く思っていなかった。人から人へ事件が伝聞、脚色されるなかで“シーボルト台風”による蘭船からの積み荷露見説が信ぴょう性を帯びていった」と指摘する。最終的にはシーボルト研究の第一人者である呉秀三(1865~1932年)が、幕末の外交官僚・田邊太一の回顧談「幕末外交談」などを引用しながら「座礁で発覚」という通説を著書で扱い、定着していったという。

 ■発覚の端緒

 これに一石を投じたのが梶さんの論文で、当時の商館長メイランの日記から、座礁当時、船には安定性を保つために銅500ピコル(約30トン)だけが重し(バラスト)として積まれていたことを確認した。修理の際に荷物を臨検したという記載も無く、メイランの日記からは通説を立証できないことを明らかにした。
 さらに今回新たに見つかった史料には、幕府天文方兼書物奉行の高橋景保への家宅捜索と逮捕を契機に、シーボルトと高橋の間での日本地図などの受け渡しが露見し、その情報が長崎にも伝えられ出島のシーボルトに対する調べが進められていく過程が記されている。つまり座礁事件は関係ない。同史料をメイランの日記などと併せて読み解くと、事件の発覚と経過がよく分かるという。
 梶さんは「論文の反響が強くなったのは発表から約10年後のことで、歴史事典の内容が書き換えられたり、シーボルト関連の書籍に私の論が紹介され始めたりして手応えを感じた」と振り返る。

 ■大きな背景

 では、シーボルト事件発覚の端緒となった高橋景保の逮捕は、どのような背景があったのか。
 23年に来日したシーボルトは、医務官としての任務だけでなく、日本の博物学調査も担っていた。「欧米では当時、日本の風俗習慣をはじめとした総合的な情報の需要があり、日本と通交したオランダはそれらを発信する役割も演じた」(梶さん)。
 シーボルトは精力的に資料収集をするにあたり、日本人へ物品を贈るその見返りに資料を要求するという方法も採った。26年の江戸参府では高橋と出会い、物品の授受を伴う交流を開始。この交流が幕府に疑われ、高橋やその部下らが尋問によって日本地図などの贈与を認めたため、まもなく長崎でもシーボルトらへの取り調べが始まった。
 高橋に疑惑の目が向けられたのは、高橋と確執のあった北方探検家で幕府勘定方普請役の間宮林蔵が、シーボルトから間宮への書簡類を幕府に提出したことがきっかけとされる。
 しかし、シーボルト事件発覚の端緒は、単なる高橋と間宮の確執というより、1825年の異国船打払令の策定を巡る幕府の内部対立や、幕府の政治的、外交的、海防的な政策の問題も絡んだ、より大きな背景があったという見方が現在強くなっているという。
 また今回発見の史料は、事件が日蘭貿易にも影響を及ぼすことを警戒した三井呉服商の長崎駐在員が江戸の本店に内密に収集した情報を伝えたもの。梶さんは、「輸入反物などを扱う貿易商人にとって経済的なダメージが回避されるよう注視していることがうかがえる貴重な史料。改めてシーボルトの日本滞在中の動向と日本研究の内容を確認しながら、この事件について政治、外交、国防、経済そして学術など複眼的な考察を通じて研究を進めたい」と話す。