「世界の窮状に思いを」 安田菜津紀さんが公開授業

写真を見せながらシリア内戦の現状を語る安田さん=川崎市麻生区の日本映画大学白山キャンパス

 世界各国で貧困や難民問題を追い続けるフォトジャーナリスト安田菜津紀さん(32)による公開授業「シリアなど紛争地を取材する─フォト・ジャーナリストの役割」が10日、川崎市麻生区の日本映画大学白山キャンパスで開かれた。安田さんは撮影した写真や映像を通して、世界の窮状に思いを寄せることの意味を訴えた。

 「外にいた息子は攻撃の直撃を受けて即死した。娘の右足はちぎれてしまった。私たちの日常はたった5分で壊された。お願いです、戦争を止めてください」

 昨年10月、イラク北部クルド人自治区。安田さんは隣国のシリアからトルコ軍の侵攻を逃れた人々を取材した。一人の母親の証言映像に、会場は水を打ったように静まり返った。シリア内戦では40万人以上が死亡し、人口の半数の約1千万人が国内外で避難生活を送っているとされる。

 学生時代からシリアを頻繁に訪れていた安田さん。当時は治安が安定しておりバックパッカーも多かったという。現地の人々はみんな親切で、道に迷っても手を引っ張って目的地まで連れていってくれたり、気前よくバスの運賃をおごってくれたり、「思い出を数えたらきりがない」と話す。

 2011年3月、中東の民主化運動「アラブの春」がシリアに波及すると、アサド政権は反政府デモに対する武力弾圧を強行、内戦が始まった。「それから9年間、どれだけの日常が粉々にされたか」。ある人は故郷を追われて隣国に逃れ、またある人は家族の帰りを待って国に残った。

 一人の少年との出会いが忘れられない。内戦の爆撃被害を受けたアブドラ君。寝たきりで口も聞けなかったが、交流を重ねるうち徐々に回復し、体を起こせるまでになった。アブドラ君の写真を母親に渡すと大喜び。「次はもっと元気なアブドラを撮りに来て」。その日は近いと思っていた。

 しかしわずか数日後。アブドラ君の容体が急変し、亡くなった。「写真は命を救えない」。思い悩んだこともあった。そんな時、現地の非政府組織(NGO)職員に声を掛けられた。「僕らは直接支援できても、現状は外に伝えられない。あなたは世界に発信できる。役割分担だよ」。その一言に救われた。

 シリア内戦の勃発と時を同じくして、遠く離れた東アジアの島国を未曽有の大災害が襲った。安田さんは話の舞台を日本に戻す。11年3月11日、東日本大震災。発生後、安田さんは岩手県陸前高田市に駆け付けた。大津波で壊滅的な被害を受けたこの街には、夫の両親が住んでいた。

 義父は避難できたが、義母の行方が分からなかった。発生から1カ月がたとうとしていたころ、海から10キロ近く離れた場所で発見された。亡きがらは飼っていた2匹の犬のひもを固く握りしめていたという。多くの悲しみに触れ、安田さんは「ほとんどカメラを向けることができなかった」。

 唯一シャッターを切れたのが、名勝の高田松原で津波に流されずに残った松の木。後に「奇跡の一本松」と呼ばれるこの木の写真を「父に見せたい」と思った。だが、写真を見た義父の表情は険しかった。「7万本のうちの1本しか残らなかったんだ。津波の威力の象徴以外の何物でもない」

 はっとした。「自分が捉えようとしていたのは誰のための希望だったのか。ちゃんと現地の人の声に耳を傾けていただろうか。父の言葉には今でも感謝している」。そしてこう続ける。「陸前高田でもシリアでも、誰もが大切なものを失っている。みんなその爪痕と、毎日向き合っている」

 最後に安田さんは1枚の写真を示した。そこに写るのは、過激派組織「イスラム国」(IS)が「首都」と称したシリア北部ラッカで暮らす人々。彼らの言葉が胸に残っている。「私たちを本当に苦しめているのはISではない。自分たちが世界から無視されているという感覚なんだ」

 無関心が人を追い詰める。安田さんは「もし少しでも心に刻まれるものがあったのなら、大切な人たちと分かち合い、身近なところからその輪を広げていってくれたら」と呼び掛けた。

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