聚楽第はなぜ歴史から消えたのか?【8年間だけの幻の城】

関白となり、天下人が目前に迫った豊臣秀吉は、政庁・邸宅・城郭の機能を兼ね備えた聚楽第(じゅらくだい)を建てた。

秀吉は大坂より移り、ここで政務をみたが、わずか8年で取り壊してしまう。豊臣秀吉の繁栄の象徴であったはずの聚楽第はなぜ短命に終わったのか。

聚楽第 建築の意味

聚楽第は、安土桃山時代、豊臣秀吉が「内野(うちの)」(平安京大内裏跡、現在の京都市上京区)に建てたとされている。工事は、1586年(天正14年)2月に着工され、翌1587年(天正15年)9月に完成した。

※『後陽成天皇聚楽第行幸図』

時期的には、九州征伐(九州攻め、九州平定などとも)を終えた後に大阪城からこちらへ移った。当時、九州のほとんどを支配下に収めていた薩摩の島津家は、秀吉を関白と認めない方針を示しており、当主の島津義久にいたっては天正14年(1586年)1月、「源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない」とまで表明している。

そこで、秀吉自ら九州まで出征すると、島津軍を破って西国平定を果たしたのである。これは、朝鮮や琉球に対し服属を求めた接触を始めることとなった。また、その後は目標を東国平定に定め、関東の北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。

つまり、関白職を拝命して残る敵は東国のみ、しかも、早々にその権力を諸国の武将に見せ付ける必要があったのだ。そのためもあり、1588年5月9日(天正16年4月14日)には後陽成天皇の行幸を迎えてこれをもてなしている。

名称と位置

※『聚楽古城之図』に描かれた聚楽第 (図面の左が北方向)

聚楽第の名称について、南蛮宣教師ルイス・フロイスは「悦楽と歓喜の集まりを意味する」言葉として「聚楽」の由来を記している。しかし、名称そのものも、読み方も諸説あり、はっきりとはしていない。

例えば、「聚楽亭」「聚楽城」「聚楽屋敷」「聚楽邸」「聚楽館」などとも記される。読み方も「じゅらくてい」「じゅらくだい」「じゅらくやしき」の各説あるが、「第」の漢音は「テイ」であり、「テイ」の振り仮名つきの資料も見付かっていることから、当時は「じゅらくてい」と呼称した可能性が高い。

聚楽第は、京都御所の西側、二条城の北側あたりに位置し、東西は大宮通から智恵光院通まで、南北はおよそ一条通から下長者町通までが範囲だったとされている。周辺地域には秀吉麾下の大名屋敷を配置した。聚楽第と御所の間は金箔瓦を葺いた大名屋敷で埋め尽くされたと考えられている。

大名屋敷のほかに側近である千利休の屋敷もあったという。

構造と規模

※『聚楽第図屏風』部分

「豪華絢爛(中略)深い濠(堀)と石壁で取り囲まれたその建物は、周囲が半里に及んだ(中略)内部はすべて金色に輝き(中略)人々は驚嘆せずにはおられなかった」という資料も残っており、さぞ素晴らしい屋敷かと思うだろうが、実際には本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪を持ち、堀を巡らせていたため、形態としては平城であった。

さらに、屏風などには天守のような重層な建物を持つ姿が描かれていたが、近年の発掘調査が行われるまでは、天守の存在を裏付けるようなものはなかった。

しかし、2012年、京都府警本部宿舎建設に際して、京都府埋蔵文化財調査研究センターがその地を発掘調査したところ、聚楽第本丸の南堀と推定されるところから、三、四段に積まれた石垣が東西約三二メートルにわたって発見されたのである。発見された石垣の石は、最大で幅約一・五メートルという巨大さだった。

本丸の南端中央部にあったとされる大手門へ向かうにつれて、石垣にはより大きな石が使われ、諸大名が大手門を通る際の見栄えを考えて設計されていたこともわかった。発見された石垣は、あくまで南堀の一部だったが、そこは本丸の正面にあたり、屏風絵に描かれる天守閣の存在を窺わせるに足る発見となったのである。

城郭内には、秀吉親族や、前田利家黒田孝高細川忠興蒲生氏郷堀秀政など秀吉配下にあって特に信頼されていた大名の屋敷が建ち並んでいた。さらに、徳川家康が秀吉に謁見するために上洛することになったときには、家康の屋敷を邸内に建てさせるなど、広さも十分である。

徹底した破却

※『聚楽第址』の石碑 1992年(平成4年)に聚楽第本丸東堀の跡から大量の金箔瓦が出土した。この石碑はその東堀跡に建てられている。

1591年(天正19年)12月に秀吉が豊臣氏氏長者・家督および関白職を甥(姉・日秀の子)豊臣秀次に譲ったあと、聚楽第は秀次の邸宅となった。翌、1592年(天正20年)1月には再度、後陽成天皇の行幸を迎えている。短期間に同じ場所に2度も行幸が行われたのは稀有なことである。

しかし、文禄2年8月3日(1593年8月29日)、秀吉の側室であった茶々(淀殿)との間に実子である豊臣秀頼が誕生した。秀吉57歳にして生まれた実子である。秀吉は大変に可愛いがったとされる。

2ヶ月後の10月には、秀頼と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不詳)を婚約させ、秀吉から秀次、秀頼へという政権継承を模索したが、秀吉は、文禄4年(1595年)7月には秀次の関白職を奪い、ついで自刃させた。秀次の子女や妻妾もほぼ皆殺しとなり、秀頼が秀吉の家督を継ぐ者としての地位が確定した。

我が子かわいさに、秀次に謀反の疑いをかけて高野山で切腹させたといわれており、翌8月から聚楽第を徹底的に破却した。

これは、聚楽第を破壊することで秀次の痕跡を地上から消す意味があったという。こうして建築から8年、秀吉が住むことわずか4年で聚楽第の痕跡までも歴史から消されてしまったのだ。

しかし、聚楽第取り壊しには、もうひとつの目的があったと思われる。
それこそ、秀吉が天下にその力を示すためだったのではないだろうか。贅を尽くした聚楽第さえも、秀吉は簡単に取り壊すだけの権力と財力がある、と。

そう考えれば、徹底的に破却され、明確な遺構は残っていないことにも納得できるはずだ。

(文/gunny : 草の実堂編集部)(画像:wiki(C),public domain)

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