太宰府の文化財(416)

©株式会社VOTE FOR

大伴旅人邸はどこ?

「令和」の新元号となって初めてのお正月です。昨年は、その典拠となった万葉集「梅花の宴」が注目され、宴が開かれた大宰帥(だざいのそち)(長官)・大伴旅人の邸宅に関心が集まりました。
この邸宅とは、都から赴任してきた官人のために用意された「館」のことです。左遷された権帥(ごんのそち)・菅原道真が住んだ「南館」(権帥館)もその一つで、大宰府政庁南の朱雀大路沿い(現在の榎社付近)と伝えられています。ただ、旅人邸である「帥館」については、記録も伝承もありません。このためこれまでいくつかの学説が提示されています。

坂本八幡宮周辺と考えたのは、九州大学の竹岡勝也(たけおかかつや)教授です。1952(昭和27)年刊行の自著『太宰府小史』に、政庁跡西北の小字を「大裏(ダイリ)」というと述べ(実際は政庁跡全体がこの小字ですが)、これを天皇が住まう「内裏」に当ると考え、近くに瓦や礎石が見つかった場所があること、旅人が招いて開いた歌会の歌に「わが岡の」や「岡傍(おかび)には」など丘を記すことを根拠に、「一応この辺」としました。その後九州歴史資料館が、これを検証する目的もあって坂本八幡宮周辺を遺跡調査しますが、想定される遺構は見つかりませんでした。

このため1998年、同館の赤司善彦(あかしよしひこ)さん(現、大野城心のふるさと館長)は、大宰府史跡発掘30年記念展図録で新説を発表します。赤司さんは、政庁東側の月山丘陵の南東(大宰府展示館の東)の遺跡調査で見つかっていた「月山地区官衙(かんが)」だと考え、周囲を囲む塀が月山の丘を取り込んでいること、文献に残る都の貴族邸宅の広さとの比較、奈良時代初めの有力者・藤原不比等(ふじわらのふひと)の邸宅の位置(平城宮の東側)などを根拠としました。ただ、多くの建物跡が時期不明であり、「館」の特徴を備えているわけでもありません。一帯を官衙(役所)の範囲内と考える研究者は少なくなく、昨年度も論文が発表されています。

本市の2014(平成26)年3月刊行の発掘調査報告書『大宰府条坊跡44』の中で井上は、大宰府条坊の朱雀大路沿いという説を述べています。朱雀大路沿いには、「南館」をはじめ、赴任官トップの往来を伝える記録・伝承・遺跡があります。大伴旅人は朱雀大路を南に下った次田の湯(二日市温泉)で万葉歌を詠んでおり、1005(寛弘2)年に赴任した大弐・藤原高遠(ふじわらのたかとお)も、朱雀大路上の「幸橋(さいわいのはし)」を渡る和歌を詠みました。この南東では彼らが締めた腰帯「白玉帯(はくぎょくたい)」の白玉が出土しており、その南は朱雀大路沿いでは唯一の丘陵地です。このため榎社の東向かいの、朱雀大路に隣接した一帯だろうと推測しています。ここでは遺跡調査は行われていませんが、多賀城や下野国府など全国の国府でも大路沿いに館があり、可能性はあります。
旅人邸についての主な研究を紹介しました。いずれも今後の調査研究が重要です。

文化財課 井上信正