なぜトンプソンルークはこれほど愛されたのか? 大野均・W杯3大会の盟友が語る、忘れ難き記憶

©株式会社 REAL SPORTS

生まれた国は関係ない。僕には日本のプライドがある――

誰よりも日本を愛し、誰よりも日本のために戦ってきた。16年もの間、日本でプレーし、ラグビーワールドカップには日本代表史上最多となる4度の出場を果たした、誰よりも熱い魂を持つ侍。2020年1月19日、2部リーグの試合としては異例の1万4599人のファンに見守られながら、現役生活に終止符を打った。

なぜ、私たちの誇り、トンプソンルークはこれほどまでに愛されたのか?

日本代表の盟友・大野均が、青い目の侍と共に過ごした大切で忘れ難い思い出を紐解くことで、その答えは見えてくる――。

(文=藤江直人、写真=KyodoNews)

現役最後の試合にも貫き続けた「自分らしさ」

最後の最後ぐらいはエゴを出してもいいのに。心のなかでこんな思いを抱きながら、日本代表で歴代最多の98キャップを誇る元祖鉄人、41歳の大野均(東芝ブレイブルーパス)は目を細めた。

「あそこはトライを取りにいってもよかったのかな、と思いますけど。最後までチームファーストというか、チームのためにプレーしたというか。黒子でしたけど、それでも今日は主役でしたね」

脳裏にはほんの数十分前に目の前で繰り広げられた日本代表の盟友で、今シーズン限りでの引退を表明しているトンプソンルークの、まさに信念が反映されたプレーが鮮明に刻まれていた。

聖地・秩父宮ラグビー場で1月19日に行われた、栗田工業ウォーターガッシュとのトップチャレンジリーグ最終戦。無傷の開幕6連勝で優勝に王手をかけていた古豪、近鉄ライナーズのロックとして先発したトンプソンが、いよいよ現役に別れを告げる瞬間が訪れようとしていた。

近鉄が69-0と大量リードを奪い、時計の針は後半50分を回ろうとしていた。故障者の治療に要した5分のロスタイムを超えた段階で、ボールをタッチラインの外へ蹴り出せば試合は終わる。それでも近鉄が攻め続けたのは、トンプソンに有終の美を飾るトライを取らせたかったからに他ならない。

そして、絶好のチャンスが訪れた。敵陣のゴールライン付近で形成されたラック。スクラムハーフのライアン・ローレンスは、迷うことなく右斜め後方にいたトンプソンへパスを送る。栗田工業のディフェンスラインはそろっていたが、身長196cm体重110kgの巨体を生かし、最大限の勢いをつけて突っ込めばトライできる可能性が生じるかもしれない。

2部に相当するトップチャレンジリーグでは異例の多さとなる、1万4599人のファンが期待を込めて腰を浮かす。大野もその一人だったが、トンプソンが選んだのはスタンドオフ正面健司へのパス。さらに正面から飛ばしパスを受けた、フルバックのセミシ・マレシワがトライを決めた。

大阪の街、文化、伝統をこよなく愛し、情熱をささげた

「もちろんやりたいけど、足遅いの。10年前ならチャンスがあったけど。チームが勝ったら、僕のトライはしょうがないです」

いたるところが汚れ、汗が染み込み、芝生もこびりつくなど、トンプソンをして「ちょっと臭い。シャワーほしいね、これ」と苦笑させたジャージー姿のままひな壇に座った試合後の記者会見。2006年から東大阪市内で暮らし続けた日々でいつしか身についた、どんなときでも笑いを取る関西人ならではの精神を、トンプソンは決して流暢ではない日本語に反映させた。

期待に応えてトライを狙っても、文句は言われなかったはずだ。もっとも、エゴを前面に出すことは、何よりもチームを優先させるトンプソンの流儀に反していた。ホームゲームなのにあえてセカンドジャージーでの試合を選び、引退するトンプソンがファーストジャージーでプレーする舞台を用意してくれた栗田工業の敬意に応えるためにも、最後まで自分らしさを貫きたかったのだろう。

そして、最後に着た近鉄のジャージーは、世界でたった一枚だけの価値を持っていた。トンプソンに用意された背番号「4」のそれにだけ、右胸の部分に特別な文字が刻まれていたからだ。

In appreciation of your
effort and commitment to
Kintetsu Liners R.F.U
2006-2020
Luke Thompson

生まれ育ったラグビー王国・ニュージーランドから2004年に来日。トップリーグの三洋電機ワイルドナイツ(現・パナソニックワイルドナイツ)に加入したトンプソンは、2006年に出場機会を求めて2部に当たるトップウェストAリーグに所属していた近鉄へ移籍した。

以来、近鉄一筋でプレーし、最後のシーズンを含めて、トップリーグ以外の舞台に立ったシーズンも4度を数えた。近鉄を愛し、大阪の文化や伝統を愛しながら、前後に子どもを乗せられる自転車で練習場へ通った。いまでは「毎度おおきに」や「何でやねん」と関西弁を使いこなすトンプソンがささげてくれた、献身的かつ情熱的なプレーへの感謝の思いが右胸の英語に凝縮されていた。

「英語だけど、チームからのメッセージ。僕は2006年から2020年までいて最後だから。これも、いいメモリー。これは僕の記念になります」

盟友・大野均の一番の思い出は、共に先発を果たしたあの一戦

万感の思いを記者会見で語ったトンプソンは入室する直前に、最後の勇姿を記憶に焼きつけようと、本人には知らせずに秩父宮ラグビー場を訪れていた大野から「トモ、お疲れさま」と労をねぎらわれていた。トモとは名前を短縮した形で、いつしかつけられたトンプソンの愛称だ。

「今日もそうでしたけど、本当に骨惜しみをしないというか、トモの人間性がそのままプレースタイルに出ていましたよね。これだけのお客さんが来ているなかで、相変わらずというか、最後の最後までトモらしい試合を見せてくれた。引退は寂しいけど、トモ本人はやり切ったと思う。日本ラグビーを盛り上げた功労者と一緒にプレーすることができたのは、自分にとって一生の誇りです」

左右のロックとしてコンビを組んできた、日本代表での一番の思い出を問われれば、大野は迷うことなく2007年9月12日のフィジー代表戦を挙げる。共に初めてワールドカップ代表に選ばれ、フランス・トゥールーズのピッチで先発としてそろい踏みを果たした一戦だ。

当時のヘッドコーチで、元ニュージーランド代表のレジェンドでもあるジョン・カーワンは、3-91の大敗を喫したオーストラリア代表とのプールB初戦であえて主力以外の選手を起用。続くフィジー戦、そしてカナダ代表との最終戦で白星をもぎ取るプランのもとでロックに指名されたのが、日本国籍を取得する前のルーク・トンプソンと、身長192cm体重105kgのサイズを誇る大野だった。

「本当にハードワークのお手本といいますか、トモの背中に引っ張られて、自分も日本代表として戦うことができた。フィジー戦は勝てなかったけど、いまでも鮮明に覚えています」

必勝を誓った一戦でトンプソンは後半の51分に17-17の同点に追いつくトライを、78分には6点差に迫るトライをそれぞれ決めている。最終的には31-35で敗れ、ワールドカップにおける2勝目も、そしてベスト8進出もまだまだ遠かった時代で、トンプソンは代役の利かない存在となった。

日本国籍を取得して臨んだ2011年大会でも1分3敗と結果を出せなかったなかで、キャップを積み重ねていったトンプソンは「キンちゃんがあれだけ元気にやっているのだから、絶対に負けられない」を口癖にしながら、精進を重ねてきた。キンちゃんの愛称で呼ばれる大野は「そうしてお互いに刺激し合いながら、ここまで来られた。本当に素晴らしい人間と出会えた」と感謝する。

一度は代表引退するも、再び戻る決意をしたのはやはり盟友の存在

迎えた2015年のイングランド大会。プールBの初戦で優勝候補の一角、南アフリカ代表から34-32の逆転勝利をもぎ取り、世界中へ衝撃を与えた「ブライトンの奇跡」でも、2人は先発に名前を連ねている。しかし、3勝をあげながらベスト8へ進めず、大会を去ることが決まった直後にトンプソンは代表からの引退を表明している。

「新しい歴史をつくることができた。キンちゃんは4年後も多分大丈夫だけど、僕はおじいちゃんだから無理です。ちょっと寂しいけど、これが僕の最後のテストマッチです」

高校時代に出会った最愛の夫人と、日本で生まれた3人の子どもと過ごす時間を優先させての決断。しかし、再び日の丸を背負った理由をたどっていくと、盟友の存在に行き着く。2017年6月24日に行われた、アイルランド代表とのテストマッチで、トンプソンは1試合限定の復帰を果たす。

きっかけはいま現在も日本代表を率いる、ジェイミー・ジョセフ ヘッドコーチからかかってきた電話だった。大野を含めてロックにけが人が続出していた緊急事態を受けて、経験豊富なトンプソンに白羽の矢が立てられた。アイルランドとの第1戦で、戦う姿勢を見せられずに大敗していたこともあって、背中を介して魂を見せてほしいと要請された。

「キンちゃんの代わりだから頑張るよ」

漢として断る理由がなかったトンプソンは、無念の離脱を強いられた大野へ、電話越しにこんな言葉をかけている。果たして、アイルランドとの第2戦も敗れはしたものの、味方への献身的なサポート、何よりも攻守が入れ替わった直後に何度も見舞った強烈なタックルで存在感を発揮したトンプソンは、日本歴代で初めてとなる4度目のワールドカップ出場へ、再び熱き思いをたぎらせていた。

日本で初めて開催されるひのき舞台へ臨む、トンプソンを含めた31人の代表メンバーが発表された昨年8月29日。大野は偶然にも大阪で、2007年大会でキャプテンを務めた箕内拓郎さんと行動を共にしていた。そして、サインをしたためたファンと記念撮影に収まっていたときだった。

「ついさっき、トンプソン選手にも会ったんですよ」

こう言われた大野は、気が付いたときにはトンプソンへ連絡を入れ、上京する直前の梅田駅で会っている。負傷離脱したアイルランド戦を最後に日本代表から遠ざかり、一人のファンとして声援を送る立場となった大野は、ブランクを乗り越えて復帰を果たしたトンプソンへ夢を託した。

「立ち話程度でしたけど、いいタイミングで会うことができてよかったと思っています」

日本中を熱狂の渦に巻き込んだ2019年W杯での思い出

その後の日本代表の快進撃は、あらためて説明するまでもないだろう。プールA初戦でロシア代表に勝利すると、2戦目では当時の世界ランク1位、アイルランドから19-12で逆転勝ちをゲット。サモア代表も退けると、2015年大会で敗れている因縁のスコットランド代表も28-21で撃破した。

決して芳しくなかった開幕前の下馬評を覆す、1位でのベスト8進出。試合を重ねるごとに日本中を熱狂させ、一大フィーバーを巻き起こした軌跡で、トンプソンはアイルランド戦で先発して63分までプレー。スコットランド戦ではフル出場を果たした胸中で「生まれた国は関係ない。僕には日本のプライドがある」と侍魂をほとばしらせながら、泥臭いプレーで縁の下を支えてきた。

居ても立ってもいられなくなった大野は、南アフリカとの準々決勝を翌日に控えた10月19日に、トンプソンへ電話を入れている。タイミング的にどうかと逡巡したが、これ以上はない最高の形で夢をかなえてくれた盟友を「どうしても激励したくなった」と、宿泊先のホテルへ向かった。

「トモから『午後なら空いているから大丈夫だよ』と言われたので。今回もトモの存在感に他の選手たちも引っ張られるような形になって、すごくいいパフォーマンスをしていたので。ホテルで会ったトモは、すごくいい表情をしていましたよね」

日本代表の快進撃は、最終的に優勝した南アフリカに3-26で屈した瞬間に幕を閉じた。試合後にインタビューに応じたトンプソンは「ちょっと寂しい。このチームは特別でした」と言葉を残した。今度こそ代表に、そして愛するラグビーそのものにも別れを告げる。ニュージーランドに戻って牧場を経営する第二の人生は、決して思いつきで言ったものではない。大野が懐かしそうに振り返る。

「自分と一緒に代表へ呼ばれているときから、農業の雑誌を読んだりして勉強している姿を見ていましたからね。考え方がすごくしっかりしていたし、間違いなく成功すると思いますよ」

諦めることなく、自分の限界まで突き進む――

代表選手たちに十二分な休養を与えたうえで、年明けに華々しく開幕したトップリーグとは異なり、8チームで争われるトップチャレンジリーグは南アフリカ戦から約1カ月後の11月15日に開幕した。激戦で蓄積された疲労を抱えながらも、トンプソンは1試合を除いて先発に名前を連ねてきた。そして、栗田工業との最終戦を前に初めてと言っていいわがままを申し出ている。

「今日だけは80分間、フル出場させてください」

釜石シーウェイブスRFCを76-12で下し、全勝優勝へ王手をかけた前節で、接触プレーで左耳の裏から流血したトンプソンは後半途中での交代を余儀なくされていた。栗田工業戦でも患部にはテーピングが巻かれ、左目の下には大きなあざもできていたが、有水剛志ヘッドコーチは快く受け入れた。

「今シーズンのトモは、チームにあまりフィットしていない。トモに限らずチームから長く離れてしまうと、どんなにすごい選手でもフィットするのは難しい。しかし、そうした事情を超越しても存在感が大きいというか、もっと具体的にいえば危機察知能力が高いというか。他の選手にはないものを持っている意味で、決して名前だけでトモをメンバーに入れていたわけではありません」

危機察知能力の象徴がタックルとなる。何度も愚直に頭から飛び込み、倒れてもすぐに起き上がって再び獲物に照準を合わせる。初めて日本代表に選出された2007年春に残した決意<Never Stop, Push yourself to the Limit(諦めることなく、自分の限界まで突き進む)>を繰り返してきた姿は、日本人の心の琴線に触れた。

決意のなかの<yourself>は日本代表であり、近鉄となる。ジャージーに袖を通した、情熱のすべてをささげたチームを「限界まで押し上げてみせる」――現役最後の一戦でもテーマを実践し続ける姿に、2015年のワールドカップ・南アフリカ戦を生中継したJ SPORTSで、実況を務めたフリーアナウンサー、矢野武氏がトンプソンを評した言葉を思い出さずにはいられなかった。

「泣けてくるほど頑張る男です!」

勇姿を見届けた大野も魂を揺さぶられた一人だ。大勢のファンに秩父宮ラグビー場へと足を運ばせ、最後になんとかトライを取らせたいとチームメイトたちを動かす。老若男女の垣根を越えて、誰からも愛されたトンプソンへ最後まで別れの言葉はかけず、あえて「ありがとう」と声をかけた。

「引退はしますけど、この後も日本ラグビーのためにいろいろとやってくれるはずだし、何よりも周りが放っておかないと思うので。また会う機会もあるし、そのときを楽しみしています」

記者会見場に入ってきた直後のシーン。有水ヘッドコーチとロックを組んだゲームキャプテン、マイケル・ストーバークが話をしているときに、左耳のテーピングを剥がしたトンプソンは苦痛で顔をゆがめている。真っ白なテーピングは、耳に接していた部分が血で真っ赤に染まっていた。

「ちょっと疲れた。だから、変な日本語でごめんね。今日は特別な日。チームが勝って優勝した。それが一番大事。だからうれしい。僕の最後の試合、たくさんのすごい応援、信じられへんし、ちょっと寂しい。16年間も日本でプレーした。むちゃ長い時間だよ。僕の人生にはずっとラグビーがあった。これから新しいチャレンジ。楽しみだけど、ちょっと緊張もある。でも、今日はすごく誇ります」

一生懸命に話す日本語から、熱い思いがひしひしと伝わってくる。最後まで涙を見せなかった現役最後の日。新たな勲章を左耳に刻みながら心身を完全燃焼させ、記者会見を終えたトンプソンは立ち上がった直後に「ありがとうございました」と一礼して、笑顔で楕円のボールに別れを告げた。

<了>