「村上春樹を読む」(100)動物と話せる日本人 「品川猿の告白」

「文學界」2月号

 今年の「文學界」2月号に、村上春樹の短編「品川猿の告白」が掲載されています。連作短編「一人称単数」の「その7」とある作品です。

 前回、この「村上春樹を読む」で紹介した川上未映子さんによる村上春樹へのロングインタビュー『みみずくは黄昏(たそがれ)に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』の新潮文庫版の刊行を記念した「冬のみみずく朗読会」が昨年12月17日に開かれ、この「品川猿の告白」のショートバージョンというか、朗読のための版を村上春樹が読み、報道もされました。

 私は、その朗読会を取材していませんが、それを取材した記者によりますと、村上春樹は、手ぶりや声色も使って朗読したそうです。「品川猿の告白」は「僕」が語り手となった小説ですが、「人間の言葉をしゃべる」猿も登場します。村上春樹は朗読会で、「僕」のパートと、「猿」のパートを、声色を変えて、朗読したそうです。事前に入念な用意をして、おそらく村上春樹自身も楽しんだ朗読だったのではないかと思います。

 私は、この「品川猿の告白」をたいへん面白く、興味深く読みました。「村上春樹を読む」も100回目ですが、今回は、この「品川猿の告白」について考えてみたいと思います。

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 村上春樹の愛読者なら、この作品の題名を知れば、短編集『東京奇譚集』(2005年)に収録されている「品川猿」と関係した作品ではないかと思うはずです。

 その通りで、いくつか重なっている部分がありますが、でも設定が同じかというと、かなり「品川猿」と異なった部分もある短編です。

 まず今回は、単独の短編として、「私」に届いたことを記してみたいと思います。

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 一人旅をしていた「僕」が、群馬県のM*温泉の小さな旅館で、年老いた猿に出会います。5年前のことです。

 夕食時間を過ぎていたので、夕食抜きで泊めてくれる宿が少なく、ようやく受け入れてくれる宿が見つかります。それは「木賃宿」という言葉が似合う寂寥感溢れる宿ですが、建物や設備の貧相さに比べると、温泉は思いのほか素晴らしい湯です。

 そして「僕」が宿の温泉に入っていると、「猿」がガラス戸をがらがらと横に開けて風呂場に入ってきます。その猿が低い声で「失礼します」と言って、湯に入ってきたのです。そうやって「僕」と「猿」の会話がそのまま始まり、物語が進んでいきます。

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 一読して、これはたいへんことだと思いました。「人間」と「猿」が、話しこむという「相当に不思議な体験」なのに、一気にその会話の世界に、村上春樹が連れて行ってしまうのです。

 「お湯の具合はいかがでしょうか?」と「猿」は「僕」に尋ねます。それに対して、「僕」は「とても良いよ。ありがとう」と言います。

 「背中をお流ししましょうか?」と「猿」が「僕」に尋ね、「ありがとう」と「僕」は応じています。

 これは、かなり奇妙なことですよね。何しろ「人間」と「猿」が話しているのですから。

 そのあたり、村上春樹も「いや、ちょっと待ってくれ、どうして猿がこんなところにいて、人間の言葉を話しているんだ?」と「僕」の思いを記していますが、そんな疑問、自覚のほうに話は傾かず、「僕」と「猿」の会話が進展していきます。読者のほうも、「人間」と「猿」が話していることに躓いたりしません。

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 「猿」の声は、見かけには似合わず、ドゥワップ・コーラスグループのバリトンを思わせる艶(つや)のある声で、しゃべり方にも癖がなく<目を閉じて聞いていたら、人が普通に話しているとしか思えない>ようです。

 猿はタオルを持ってきて、そこに石鹸をつけ、慣れた手つきで器用にごしごしと僕の背中を洗ってくれます。

 「ずいぶんお寒うなりましたですね」と「猿」が言い、「そうだね」と「僕」が応えると「もう少ししますと、このへんはけっこう雪が積もります。そうなると、雪下ろしがなかなか大変でして」と「猿」が言います。

 そこで会話に、少し間があいたので「僕」は思いきって尋ねてみます。

 「君は人間の言葉がしゃべれるんだ?」

 ここも、先ほど紹介した「いや、ちょっと待ってくれ、どうして猿がこんなところにいて、人間の言葉を話しているんだ?」という「僕」の内なる疑問、自覚を相手の「猿」に向けて、「思いきって尋ねた」場面なのですが、やはり疑問、自覚のほうに話は傾きません。

 「猿」は「はい」と、はきはきと答え、さらに「小さい頃から人間に飼われておりまして、そのうちに言葉も覚えてしまいました」と言うのです。

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 「かなり長く、東京の品川区で暮らしておりました」と「猿」が言うので、「品川区のどのあたり?」と聞くと、「御殿山のあたりです」と答えるのです。

 「いいところだね」と「僕」が言うと、「はい、ご存じのようにずいぶん住みやすいところであります。近くに御殿山庭園なんかもございまして、自然に親しむこともできました」と「猿」が語るのです。

 このあたりで、「品川猿」という短編と関係し出すのですが、そのことは、また考えるとして、「僕」と「猿」の会話の進展の違和感の無さ、自然の流れについて、考えてしまいます。いや、考えることも忘れて、どんどん「僕」と「猿」の会話に心を任せて、読み進めてしまう自分がいるのです。

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 村上春樹は、そのデビュー作『風の歌を聴け』(1979年)の主人公「僕」の分身的な相棒の名前が「鼠」ですから、最初から「人間」と「動物」がたくさん出てくる小説が多い作家です。

 『羊をめぐる冒険』(1982年)『ねじまき鳥クロニクル』(1994年―1995年)『海辺のカフカ』(2002年)という具合に動物が題名に含まれる物語がたくさんあります。『海辺のカフカ』の「カフカ」はチェコ語で「カラス」の意味です。

 そう言えば『みみずくは黄昏(たそがれ)に飛びたつ 川上未映子 訊く/村上春樹 語る』にも「みみずく」が含まれていますね。

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 いきなり、物語の中に動物が闖入(ちんにゅう)してくる作品では『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)の中の短編「かえるくん、東京を救う」の例があります。これも村上春樹自身が「かなり奇妙な筋の物語」と言っている作品です。

 信用金庫に勤める、あまりぱっとしない中年の片桐がアパートの部屋に帰ると、巨大な蛙が待っています。2本の後ろ脚で立ちあがった背丈は2メートル以上ある蛙です。

 その「かえるくん」と片桐が協力して、東京の巨大直下型地震を未然に防ぐという話ですが、かえるくんは片桐に「ぼくはつねづねあなたという人間に敬服してきました」と話したりしています。

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 でも、この「品川猿の告白」ほど、「人間」と「動物」が話せることに、自覚的でありながら、そのうえで「人間」と「動物」が話していくことを主動力として、物語がどんどん進んでいく小説は初めてではないかと思います。

 例えば「かえるくん、東京を救う」では「かえるくん」の登場に、片桐は驚いていますが、でも「いや、ちょっと待ってくれ、どうしてかえるがこんなところにいて、人間の言葉を話しているんだ?」「君は人間の言葉がしゃべれるんだ?」というような、読者に「人間」と「動物」が話していることの自覚を意識的に促すような会話が繰り返されているわけではありません。

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 また「人間」と「動物」が話せるということは、「人間」が「人間ならざる」ものと話せるということです。「人間」が「異界のもの」と話せるということです。

 この「異界」と話せる「人間」の世界に、違和感を抱くことなく、気がつくとすぐに、物語の中に連れ込まれているわけです。

 これは村上春樹の小説を書いていく力ゆえなのか……、また村上春樹の小説世界に親しんでいるから、そこに違和感を抱かないのか……、あるいは村上春樹の物語世界を含んで、さらにそれを超えて、別な理由が存在するのか……、そのようなことを「品川猿の告白」を読んで、考えてしまいました。

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 そして、もちろん村上春樹の小説の力が大きいのですが、日本人の異界の在り方が、そこに反映しているのではないかと思うのです。そのことについて、別な角度から、少し考えてみたいと思います。

 カズオ・イシグロへのインタビューが「文學界」二〇〇六年八月号に掲載されたのですが、その中で村上春樹作品の特徴として「リアリズム・モードをうまく破ることができる」ことをカズオ・イシグロが述べています。それゆえに国を超えて読まれると語っていました。そして「品川猿の告白」はリアリズム・モードをうまく破った作品です。

 カズオ・イシグロによれば、村上春樹のように反リアリズムで成功した作家はここ百年でも「非常に稀有」で、他にカフカとベケット、ガルシア・マルケスを挙げていました。

 管見ゆえに、理解不足があるかもしれませんが、でもガルシア・マルケスの異界の在り方と村上春樹の異界の在り方を比べてみると、そこにかなりの違いがあるように感じるのです。

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 マルケスの代表作『百年の孤独』も、マコンドという村での異界の物語です。私もこの作品が大好きですし、マルケスを取材したこともありますが、でも異界の世界の在り方は、村上春樹の作品世界と異なっているように感じます。

 同作の冒頭、ホセ・アルカディオは闘鶏の賭けに勝つのですが、侮辱的な言葉に怒って、負けた相手を投槍で殺してしまいます。その殺された男が幽霊となって現れるので、「とっとと消えろ!」とホセは叫びますが、幽霊は消えません。

 そしてホセはよく眠れなくなってしまうのです。ホセは、その幽霊の男に「わかったよ」「おれたちはこの村を出ていく。できるだけ遠くへ行って二度と戻ってこないから、安心して消えてくれ」と言って、村を出て山を越え、マコンドを建設するのです。

 幽霊が出てくると「とっとと消えろ!」と叫び、眠れなくなってしまうというホセを通して、その異界の在り方を考えると、『百年の孤独』では、現実の村での異界(幽霊)との遭遇、恐怖、忌避があって、その後に異界の新しき村の建設という段階があります。

 異界に至るまでの段階的な通路、小路(こみち)があって、そこを通って異界に入っていきます。でも、村上春樹の作品世界には、その段階がありません。そこに至る段階的な通路、小路がないのです。

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 長編の例を1つ挙げてみれば、『海辺のカフカ』がそうです。星野青年の前にケンタッキーフライドチキンの人形、カーネル・サンダーズが現れて、こんなことを言います。

 「我今仮に化(かたち)をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮(こころ)あり」

 これは『雨月物語』の『貧福論』に登場するお化けが話す言葉の引用ですが、その意味は「今私は仮に人間のかたちをしてここに現れているが、神でもない仏でもない。もともと感情のないものであるから、人間とは違う心の動きを持っている」ということです。

 つまり自分は人間ならざるものだと言っているのですが、星野青年は、ケンタッキーフライドチキンの人形、カーネル・サンダーズという、未知なる異界の存在と出会っても、驚くことなく、恐怖も忌避もなく、普通の会話をしています。日常性の中でダイレクトに異界と自由に会話しているのです。

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 それと同じように「品川猿の告白」の「僕」と「猿」との会話があると思います。

 「僕」が宿の温泉に入っていると、「猿」がガラス戸をがらがらと開けて風呂場に入ってきて、「失礼します」と「猿」が言い、湯に入ってくるのです。

 「お湯の具合はいかがでしょうか?」と「猿」が尋ね、「とても良いよ。ありがとう」と「僕」は言います。「背中をお流ししましょうか?」「ありがとう」と、いきなり会話が進んでいくのです。

 そこに、異界への通路や小径、異界への段階というものがありません。一気に「人間」と「猿」の会話が進んでいるのです。

 これが、村上春樹の作品世界ですし、今回の「品川猿の告白」は最もその世界をダイレクトに、楽しく、深く実現していると思いました。

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 でも、それは村上春樹の作品だけにある独特なものなのかという点を考えてみると、そうではなくて、日本人が広く持っている異界の世界ではないかと思います。

 この「動物」と「人間」の会話という観点から、考えてみる例として、「象の消滅」という短編があります。

 「象の消滅」は、老いた象と老飼育係の男がある日、象舎から忽然として消えてしまう話です(「品川猿の告白」の「猿」も紹介したように年老いた猿です)。

 その年取った飼育係は象を動かす時に「何事かを囁(ささや)きかけるだけでよかった」。象も「簡単な人語を理解するのかもしれない」ように、飼育係が指定した場所に移動したと記されています。

 そして、この「象の消滅」を巡るたいへん興味深いエピソードが『村上春樹全作品 1979―1989』の月報に、村上春樹によって記されています。

 村上春樹は1991年から1995年まで米国東海岸に滞在していました。「象の消滅」を読んだ米国の学生たちと、村上春樹が同作について話し合ったことがあるそうです。

 アメリカの学生たちは、この「象の消滅」は「場所が日本でなくても成立する話である」と言うのです。でも、それを聞いた村上春樹が「日本の小説でないと思ったのか?」と、逆に質問して、議論となり、その結果、アメリカの学生たちも同作には米国ではあり得ないことがあると認めたという話です。

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 そのアメリカでは、あり得ず、日本でなくては成立しない点とは、こんなことでした。

 「象の消滅」では、小さな動物園が経営難で閉鎖となり、動物たちがそれぞれ全国の動物園に引き取られていくのですが、年老いた象には引き受け手がないため、町が象を引き取ることになるのです。町は山林を切り開き、老朽化した小学校の体育館を象舎として移築します。その象舎の落成式の時に、象を前に小学生の代表が「象さん、元気に長生きして下さい」という作文を読みます。これがアメリカではあり得ないことなのです。

 「日本人の読者ならそんなことはとくに不思議だとは思わないだろう」と村上春樹は書いています。でもアメリカの人たちは不思議だと思います。

 ここでは、人間が「象さん、元気に長生きして下さい」と、象に話しかけているのです。日本人はどこかで動物と話せると思っているところがあるのでしょう。確かに現代の日本人は動物と自由に会話できるとは考えていませんが、でも、この小学校の代表が「象さん、元気に長生きして下さい」という作文を読む行為を「おかしいから、やめろ」とは、日本人の誰も思っていません。いまでも、日本人は心のどこかで動物に語りかけて、それが動物に伝わることを感じているのです。

 ここに、犬、猿、雉と話せる桃太郎の日本のおとぎ話を例に加えてもいいかと思います。そのような文化の中に日本人は生きているということです。

 「象の消滅」を巡る『村上春樹全作品 1979―1989』月報を読めば、その日本人の異界の在り方に村上春樹は非常に自覚的であることがよくわかります。

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 この動物と話せる日本人の世界を深く自覚しながら、最も深く、ダイレクトに描かれているのが、「品川猿の告白」だと思います。

 ユーモアも満載です。「猿」が風呂に入ってきた時、「猿は服を着ていなかった。もちろん猿は通常服を着ていない。だからそのことをとくに奇異には感じなかった」とある部分でも少し笑ってしまいました。

 「僕」と「猿」が風呂からあがって、「僕」の泊まる部屋にやってきた時には「猿」は服を着ていて、厚手の長袖シャツに、グレーのジャージのトレーニング・パンツというかっこうです。

 一緒に壁に背中をもたせかけて、並んでビールを飲む場面があるのですが、そのビールを飲む「猿」の顔を「僕」は注意して見ています。「もともと赤い顔色がそれ以上赤くなるようなことはなかった。アルコールに強い猿なのかもしれない。それとも猿の場合、酔いは顔に出ないのかもしれない」と書かれていて、これには爆笑でした。

 こんなユーモアが随所に記されているのですが、でも「猿」の告白の切実さというものが崩れないのです。たくさん笑っても、物語が壊れない。哀切さが失われないのです。村上春樹の小説を書く技術の巧みさに感心いたしました。

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 「私は考えるのですが、愛というのは、我々がこうして生き続けていくために欠かすことのできない燃料であります。その愛はいつか終わるかもしれません。あるいはうまく結実しないかもしれません。しかしたとえ愛は消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとっての貴重な熱源となります。もしそのような熱源を持たなければ、人の心は――そしてまた猿の心も――酷寒の不毛の荒野となり果ててしまうでしょう」

 そのように「猿」が自分の愛の経験について、「僕」に語ります。

 「僕」は「いや、とても興味深い話だったよ」と「猿」に話します。

 村上春樹が書いているように「現実と非現実があちこちででたらめに位置を交換するような」世界の話なのですが、「僕はその猿の告白の、痛々しいまでの正直さを認めてやりたかった」と村上春樹は書いています。その言葉が、作品を読む中で、私の中にしっかり伝わってきました。

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 今回の「村上春樹を読む」で「品川猿の告白」のことを書いてみたいと思ったのは、「猿」と「人間」が話すという物語なのに、これをそれほど奇異なことと思わず、「猿」の言葉が「私」に届き、また「僕」と同じように「とても興味深い話」として、自分の中に入ってきたのはなぜなのかということを考えてみたかったのです。

 異界と非常に近い日本人です。紹介したように、村上春樹はそのことを深く自覚して、小説を書いている作家です。でも、その日本的な異界と広く交流する世界が村上春樹の小説を通して、世界中で読まれているわけですから、異界と近く、人間ならざる動物たちと自在に交流できるという力に現代的な意味があるということだと思います。

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 私たちの世界は、いま新しく編み直されなくてはなりません。そのような危機にあるかと思います。

 私たちの世界は、いま未知なる世界、未知なる人たちと出会い、それに恐怖を抱いたり、忌避したりするのではなく、その未知なるものに、耳を傾け、興味を持ち、未知なるものから、大切なものを受け取って、世界を更新していく力に加えていかなくてなりません。

 異質なものとの、精神の交流をすることが求められている現代、それに対応する広い世界(異界も含めて)を描いている村上春樹の作品の時代的な価値があるのではないかと思っています。

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 「品川猿の告白」について紹介するうちに、随分、遠くまで来てしまいました。このあたりで、お終いにしたいと思いますが、最後に1つだけ加えておくと、この短編は「一人称単数」という連作の中の作品で、「一人称」で書かれているということです。

 例えば「かえるくん、東京を救う」は三人称小説です。「象の消滅」の老いた象と老飼育係の男は物語の語り手ではありません。

 「品川猿の告白」では「僕」が「猿」と語るという点において、ダイレクトです。敢えて言えば、ユーモアも含めて過激に、繊細に「人間」と「動物」の会話の物語を実現していることにも、たいへん驚きました。

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 「品川猿」と「品川猿の告白」の関係、また「猿」が抱える心の問題など、今回は紹介できませんでしたが、いずれ、連作「一人称単数」が短編集として刊行された時には「品川猿の告白」は大切な一編となるでしょうし、再び、この作品について、さらに考えてみたいと思います。

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 今回が、この「村上春樹を読む」の100回目ということなので、「品川猿の告白」を読みながら、村上春樹作品の中の他の「猿」についても思いを巡らせておりました。

 デビュー作『風の歌を聴け』で「僕」が「鼠」とフィアット600に乗って、酔っ払い運転で「猿の檻」のある公園の垣根を突き破り、石柱に車をぶつける場面があります。「突然眠りから叩き起こされた猿たちはひどく腹を立てていた」とあります。

 その前には「ジェイズ・バー」のカウンターで「僕」と「鼠」がビールを飲み干す場面があります。「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かに取り憑かれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し、『ジェイズ・バー』の床いっぱいに5センチの厚さにピーナツの殻をまきちらした」とあります。

 今回の「品川猿の告白」で、「僕」と「猿」が横並びでビールを飲み、酒のつまみに、柿ピーがあるのは、この『風の歌を聴け』の「僕」と「鼠」の話の場面も意識されているのかと思いました。

 そして「ジェイズ・バー」のカウンターには、一枚の版画がかかっていて、その図柄は「僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げあっているように見えた」と記されています。

 そして「何を象徴してるのかな?」と「僕」がジェイに問うと、「左の猿があんたで、右のがあたしだね」とジェイが答えるのです。そんな場面も「品川猿の告白」を読んで思い出しました。(共同通信編集委員 小山鉄郎)

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「村上春樹を読む」が『村上春樹クロニクル』と名前を変えて、春陽堂書店から刊行されます。詳しくはこちらから↓

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