ミスタードラゴンズ・高木守道を振り返る 日本一の二塁手が魅せたバックトス

高木守道氏の通算成績

美しいバックトスを武器に日本一の二塁手に上り詰めた高木氏

 1月17日に死去した高木守道氏は、10代のうちから才能を見出された秀才だった。しかし、そんな高木氏でも、厳しい競争に打ち勝って偉大な実績を上げたのだ。

 1950年代、大学野球の人気は、プロ野球をしのいでいた。東京六大学のトップ選手は全国的なスターだった。彼らはリーグ戦がないときは、求めに応じて各地の高校をめぐって球児の指導をしていた。それは有望な選手のスカウト活動でもあった。

 立教大学の4年生、長嶋茂雄が県岐阜商に指導に赴いたのは1957年6月のことだった。長嶋のお目当ては3年生のエース清沢忠彦(のち慶應大)だった。しかし野手のノックをするうちに、1人だけ異次元のフィールディングをする小さな選手に目が留まった。この年高校に進学したばかりの高木守道だった。高木は岐阜市立精華中学時代に野球をはじめたが、中学時代は家の農作業の手伝いの傍ら野球をする程度だった。

 しかし、長嶋は高木の抜群の動きの良さに驚いて、野球部長の中野鍵一に「あの子はすごいですね」と話した。また当時は遊撃手だったが二塁のほうが向いていると進言した。この長嶋の進言もあって、高木は二塁手として1年生ながらこの年の夏の甲子園に出場。さらに3年春の選抜では決勝戦まで進んだ。

 だが、小柄だった高木には、プロからのオファーはなかった。当時の県岐阜商の監督は、戦前最後の早慶戦に早稲田の二塁手として出場した森武雄。その縁もあって、高木は早稲田大学への進学に傾いたが、県岐阜商のOBで、東海テレビの解説者だった国枝利通が高木を説得し、中日への入団が決まった。国枝も中日の名二塁手として知られていた。

プロ初打席で初本塁打をマーク、守備でもダイビングキャッチのデビュー戦

 高卒1年目だったが、高木の俊敏さは際立っていた。コーチの牧野茂はノックでの反応の良さに驚き、杉下茂監督に1軍での起用を進言した。5月7日、中日球場での大洋戦に代走で出場し二塁を守った高木に、9回裏にプロ入り初打席が回ってくる。ここで高木は大洋3番手・宮本和佳から左翼へ2ランホームラン。プロ初打席で初本塁打という派手なデビューだった。また9回表の守備では、大洋近藤和彦の一、二塁間に抜けそうなゴロをダイビングキャッチしてアウトにするファインプレーも見せた。対戦相手の大洋、三原脩監督は「今後20年間、中日のセカンドは安泰でしょう」と語った。

 しかし中日には、当時、セ・リーグ最高の二塁手と言われた井上登がいた。井上はこの年まで5年連続で二塁手のベストナイン。ただ翌1961年に濃人貴実(渉)が中日監督に就任すると、井上登は冷遇されるようになる。濃人監督は井上を一塁にコンバートし、シーズン後半から高木をスタメン二塁手に起用する。このオフ、濃人監督は井上登を南海に放出、南海からはカールトン半田、長谷川繁雄、寺田陽介と3人の野手が移籍した。

 1962年、高木は二塁のポジションを井上に代わってカールトン半田と争うこととなった。しかし31歳の半田は打率.231と低迷。この時期打撃でも進境を見せた高木は.280を打って、シーズン後半には高木がスタメン二塁手として出場するようになった。カールトン半田はこの年限りで引退する。

 来る1963年はいよいよ高木守道が正二塁手に定着するかと思われたが、新任の杉浦清監督は1961年に入団した柳川福三を一度は正二塁手に据えることにした。この柳川はある意味で野球史に残る選手だ。中日は、当時のプロアマ協定を破って日本生命から柳川を強引に引き抜いた。アマチュア側は態度を硬化させ、以後プロ野球との一切の交流を遮断。この「柳川事件」がきっかけとなって、プロアマは長い冷戦時代に入ったのだ。

二塁手としての出場試合数(2179試合)、補殺数(5866)、刺殺数(5327)、併殺数(1373)ですべて1位

 そこまでして獲得した柳川は180センチ83キロ。174センチ72キロの高木よりもはるかに大きく、打撃が売り物だった。しかしこの春の千葉、勝浦でのキャンプで両者の守備、打撃をつぶさに見た杉浦監督は「モノが違う」と高木のレギュラー起用を決断した。

 こうして高木守道は中日の不動の二塁手となった。しかしレギュラーの座が安泰になってからも高木は研鑽を怠らなかった。1965年、松山市営球場で行われた春季キャンプで、高木はあるテーマを抱いていた。それは「併殺時の二塁付近に飛んだ打球の処理」だった。横っ飛びに打球を捕っても体勢を立て直して二塁送球していては間に合わない。高木はテニスで左利きの選手がバックハンドストロークでボールを打ち返すシーンを見て、バックトスを思いついた。

 高木は当時、臨時コーチとして松山に来ていたカールトン半田に相談する。ハワイのマイナーリーグで自身もバックトスをした経験がある半田は「モリミチの考えに大賛成だよ」と言った。この日から二人で猛練習が始まった。高木はこのシーズンからバックトスを始めた。1969年に中日監督となった水原茂は、高木のバックトスを見て驚き「伝家の宝刀はむやみに抜くなよ」と言った。水原の教え通り高木は“ここぞ”というときだけバックトスを見せた。

 他の選手のバックトスは、近距離から文字通りボールをトスするものだったが、高木は数メートル離れた距離から遊撃手にバックハンドからで矢のような送球をした。その速さと正確さは他の追随を許さなかった。高木守道は二塁手としての出場試合数(2179試合)、補殺数(5866)、刺殺数(5327)、併殺数(1373)ですべて1位。
早熟の秀才は努力と創意工夫で日本一の二塁手に上り詰めたのだ。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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