高野山・奥の院
女四人で京都旅行
一つ屋根に住まう4人の女のうち、9月のシルバーウィークに京都の太秦と和歌山県の高野山を訪ねようと言い出したのは、聡子さんだった。
祖父母より前の代から大阪で暮らしてきて、気づいてみれば男気のない家になっていた。
男たちは皆、亡くなったり、離縁したりして、何年も前から一人もいなくなり、聡子さんの長女の英恵はアメリカに留学したきり帰って来ずに向こうで就職し、長姉は婚家でつつがなく暮らしている。
母と次姉の桂子、聡子さんと23歳になる末娘の美和だけが残された格好だ。
独身のまま五十路を迎えた桂子と、もう喜寿だとは見えない若々しい母、47歳の自分とは「仲良しトリオです」と、聡子さんは言う。
離婚して10年以上が経ち、近頃、聡子さんには恋人が出来た。
全盲で年長の彼を家族に紹介するときは緊張しないわけにはいかなかった。
母や姉、ことに娘が、彼を受け容れてくれるだろうか、と、不安だったのだ。
しかし、これは杞憂だった。
交際はするが結婚するつもりはないことも、美和を含め、皆がすんなりと納得した――それは彼が重度の視覚障碍者だからだったかもしれないが、何にせよ、物言いがつかなかったのは聡子さんにとってはありがたかった。
太秦や高野山を訪ねてみたくなったのは、彼の影響だった。
この恋人は、自分には霊感らしきものがあると言い、そのせいか、寺社や古墳など、いわゆるパワースポットについて、呆れるほど詳しかった。
彼は、そうした聖域に惹かれ、景色が見えるわけではないのに足を運びたがり、旅することは滅多に叶わないまでも、点字本やDVDなどで知識を蓄えて喜んでいた。
聡子さんは、彼がなぜそういう場所を好むのか、正直言って、よくわからない。
しかし、愛する人が好きなものだからという極めてシンプルな理由で、近頃、少しずつ興味を持つようになってきていた。
彼によると、太秦は、朝鮮から渡来した秦氏の一族に所縁のある土地で、京都最古にして秦氏の氏寺である広隆寺を有する。古墳もあり、パワースポットなのだという。
その話をしたとき、彼は「映画村ばっかし、有名やけどな」と笑っていた。
しかし、訪ねるとしたら、太秦に映画のテーマパーク「東映太秦映画村」という見所があるのは幸いなことだと聡子さんは思ったのだった。
霊的な物事が今一つ素直に呑み込めなくても、映画村があれば……。
由緒ある寺院で静謐な雰囲気を味わった後、映画村で観光客に徹して遊ぶのは良い案だと思いついたときには、内心、手を叩いた。
若かりし頃、邦画ファンだった母は、邦画が隆盛していた頃の京都撮影所を憶えていて、太秦探訪計画を打ち明けると、最近すっかり皺ばんできた瞼を瞬かせて喜んだ。
娘の美和と、姉の桂子も、あっさり承諾した。
問題は、家族の愛犬、ジョンをどうするかだ。
ジョンは4歳のゴールデンレトリーバー種で、躾の行き届いた美しい犬だが、大型犬を預かってくれそうな友人が近隣にはいなかった。
しかし、「僕でよければ」と彼が申し出てくれた。
「両親が同居しとるし、通いのヘルパーさんもいるから、大丈夫や」
「せやかて、悪いわ」
「一泊か二泊やろ?」
「今回は日帰りか、一泊にしとこ、思うて」
「なんも問題あらへん! 安心して一泊しておいで!」
聡子さんは、迷ったが、他に頼めるあてもなく、彼にジョンを託すことにした。
その代わりに、彼に何かお土産を買ってこようと思っていたら、彼がこんな注文をした。
「そうだ! 太秦に行ったら、スマホで写真をたくさん撮ってきてよ」
目が見えないのに? 咄嗟に浮かんだ疑問が、危うく口をついて出そうになり、焦った。
すると、彼が柔らかく微笑んで、聡子さんの罪悪感を掬い取ってくれた。
「変なことを言うやろ? 目が見えへんでも、景色は憶えとる。見えた頃の記憶があるんや。写真を解説してくれたらええねん。記憶している景色に、聡子ちゃんたちがそこにおる光景を想像したんを頭の中で合成して、楽しむから」
国宝第一号の宝殿の前で
――彼が光を失ったのは、成人後のことなのだった。
聞けば、失明する前に、太秦を含め、幾度も京都を訪れたことがあるのだという。
「……ええなぁ、太秦。広隆寺は、なんでか知らんが、少ぉしばかり怖いような気がしたけどな。日程にもよるけど、旅行中に京都で変なことに遭うたら、僕なら和歌山まで足を延ばして、高野山に行く。高野山の奥之院は、一の橋、中の橋、御廟橋という三つの橋が、三重の結界になって守られとってな。橋を三つとも渡ったら、憑いとる悪いもんが落ちるんや。また、そういうのんが全然無くっても、高野山は神聖な雰囲気が格別やった。魂が浄化されるいうか、お参りして宿坊に泊まった翌朝は、なんや心が軽くなって……。ああ、もっかい行きたいなぁ。高野山、僕の代わりにお参りしてきてくれへん?」
彼のこの一言で、旅の目的地に高野山も追加されたというわけである。
3連休の初日、聡子さんたちは、家族で共有している車に乗り込んで、朝の8時に大阪の自宅を出発した。
母以外の3人で交代で運転する取り決めで、まずは太秦の広隆寺と映画村を訪ねる。
その後、高野山へ行き、宿坊に一泊して、朝から高野山見物をしたら、帰阪するという計画だ。幾つかある宿坊のうちファミリールームが空いていた一つに予約を取り、車にガソリンを満タンに入れて、準備万全で臨んだ。
「変な天気やなぁ」
出ると程なくして、後部座席に美和と並んで落ち着いた母が、窓から空の方を見上げてぼやいた。
「よう晴れとると思うたのに、なんや、たまにパラパラ時雨れてきよる。狐の嫁入りや」
「狐のって、何? お天気雨のこと?」と、美和が母に訊ねた。
「そうや。花嫁行列を人に見られんよう、お狐さんたちが雨を降らせるって迷信やけどな」
「ふうん。……どこ行くも傘が要って面倒やね。迷惑なお狐さんたちだわ」
「迷惑なんて言うたら、あかん。バチがあたるで。京都には伏見稲荷かてあるんやし、気ぃつけな」
母は冗談でそんなことを言っているのである。美和もその辺は心得ていて、ニヤニヤしている。
「今日のお天気はイマイチやね。でも、予報では明日は快晴やって」
聡子さんは運転席から後ろの母と美和に声を投げた。助手席の次姉は、昨夜遅くまで仕事だったせいか出発した途端に船を漕ぎだして、眠っていた。
彼だったら、お天気雨のことをどう解説しただろうと聡子さんは考えていた。
澄んだ青空から降る小雨には、神秘的な意味が秘められていそうな感じがした。
「魔は水を好む」と彼から聞いたことがある。
川や池、沼、井戸が関わる怪談が多いのは、そのせいなんだと。
魔物たちが怪しい雨に呼び寄せられていたとしても、霊感が無ければ何も感じないから関係ない。彼なら、何か聞いたり嗅いだり出来るのだろうか……。
広隆寺で、彼に頼まれた通りに写真を撮りはじめた。朝9時の拝観開始直後だったせいか、連休初日にしては境内がまだ空いていた。これから次第に混んでくるのだろう。
今のうちに、と、せっせとスマホであちこち写していたら、美和が話しかけてきた。
「見えない人って凄いもんやね。昔見た景色を全部、まるで映画か写真集みたいに細かいところまで頭の中で再生できるなんてな。だけど景色ばっかりじゃつまらないやろ? ママが写っとらんと、彼氏はガッカリするんやないの? だって、恋人やもん」
美和は成人してからも聡子さんのことを「ママ」と呼ぶ。聡子さんは、娘に自分のスマホを手渡した。
「確かにそうや。じゃあ、撮って。桂子ネエとかあちゃんも一緒に写ろ」
「なんで? あんたの彼氏のための写真を、あんたが解説するんやさかい、かあちゃんと私は余計や」
姉と母に後ずさりされてしまったので、聡子さんは仕方なく、自分のスマホで撮る分については独りで写ることにした。
そこは、国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像をはじめとする仏像を収めた新霊宝殿の前だった。4人で中に入り、仏像を拝観してきたばかりである。
1982年に新設された建物だが、苔むした前庭が美しい。建物の一部と池が同時に画面に入るアングルで撮ってもらえるように、聡子さんは美和さんを誘導した。
運好く、朝からの気まぐれな時雨が今は止んでいる。
「ほな、撮るで。ハイ、チーズ!」
聡子さんは笑顔を作り、写真に収まった。ここは1枚で充分だ。聡子さんは「ありがと」と言って、スマホを返してもらうために、美和に近づこうとした。
すると、「ちょい待ち!」と美和に制止された。
「ママ単独の写真を、私も1枚欲しいねん。そのまま、そのまま!」
聡子さんは「なんや照れるわ」と返し、実際ちょっと照れ臭かったので、まずは娘からスマホを受け取った。
しかし、「いいやろ?」と、尚も乞われたら、大人になった娘にまだ慕われていることがじんわりと染みるように嬉しくなってきた。
そこで、いそいそと元の位置に戻ってポーズを取り直した。
美和は自分のスマホで聡子さんを、ワンショットだけ、撮った。
娘の様子が、おかしい……
広隆寺の駐車場に車を停めたまま、映画村へ行った。東映太秦映画村と広隆寺とは、隣接しているのである。
「ママたちは忘れとるかもしれんけどな、私は中高のとき1回ずつ、どっちも学校で来とるんよ? つい、こないだやで! まあ、ええけど」
「何年も前やん!」と桂子が美和に笑いながら言った。「そないなこと言うたら、おばちゃんだって、こんなとこ何べんも来とる。……デートでな! つい昨日のことやった、ような気がする」
母が呆れて「嘘もほどほどにしとき」と姉をたしなめ、全員、笑いが止まらなくなった。
……と、同時に、聡子さんは、なぜ自分は太秦にも広隆寺にも来たことがなかったのだろうかと訝しく感じた。
考えてみれば、大阪で育った人間には珍しいのではないか?
京都は、近い。遠足か、社会科見学か、そうでなければ修学旅行などで、大人になる前に訪ねる機会があったはず。
――熱を出して学校行事を幾つか休んだことがある。私だけ、行きそびれたんやな。
「どっちも、ええとこやん。さっきの広隆寺な、流石や、思たわ」
「ママは、ほんまに太秦は初めてなんやね。なら、映画村も楽しいかもしれへん」
事実、聡子さんは映画村を思い切り楽しんだ。
母と姉も、童心に帰ってはしゃいでいた。
反対に、娘の美和は、途中からなぜか急に口数が減った。
あまりに静かだから気になって、娘の行動をそれとなく観察したところ、しょっちゅうスマホを覗いて、沈んだ顔で何か考え込むふうだった。
映画村の入り口までは、明るく、愉快そうにしていたのだ。
思えば、美和は現代っ子らしく、日に何度も、インターネットで繋がった誰彼とスマホで交流している。もしかするとSNSで悪口を書かれたのかもしれない、と、心配になった。
「美和ちゃん、スマホばっかり見んとき」
これから高野山へ向かうというとき、聡子さんは車の後部座席に乗り込むと、小声で娘をたしなめた。
この時点で、時刻は昼の12時だった。大阪を出発したときとは違い、今度は姉の桂子が運転係だ。母は助手席に、美和は聡子さんの隣に座っている。
「映画村からずっと、スマホをいじっちゃ溜息ついてたやろ? 何があったか知らんし、言わんでもええんよ? でもな、SNSで何ぞ言われても、あんまり気にしちゃ……」
「違う! そうやない! 少し黙っといて!」
強い口調で遮られて、聡子さんは驚いた。美和は、キツい冗談を飛ばすことはあっても、心根は穏やかな子だ。苛立って大声をあげることなど滅多にない。
母と姉も息を呑んだようすで押し黙り、それまで浮かれた空気が満ちていて、誰も口をきかなくとも何か賑やかな雰囲気だった車内が、硬く凍えて静まり返った。
「……ママに向かって、そういう言い方をしちゃあかんよ」
ややあって、母が美和を優しく叱った。
「だって」と、弁解しかけて、美和はキョドキョドと忙しなく視線を宙に泳がせた。
何か、言おうか言うまいか、迷っているのだ。
「どうしたん? 言っちゃいなさい! その方が楽になるから」
励ましながら、聡子さんは、娘の顔を横から見つめたが、すぐに見つめ返されて、ちょっと瞬きしてしまった。
普通、プライベートなことで隠し事をするつもりなら、目を合わすことを頑固に避けるものだ。
それが、美和は表情を引き締めて、真っ直ぐな瞳を向けてきた。
「な、なんやねん、いったい?」
「……あのね、ママ。えらいおとろしい写真が撮れてしまって、見せるべきかどうか、くよくよ悩んでただけやの」
そう告げられて、目の前に突きつけられたスマホの画面を、聡子さんは見た。
途端に、
「あんた、これ……」
と、目を剥いて絶句してしまった。
そこに映っていたものとは!
「ママ、私は誓っていっぺんしかシャッターを押してへん!」
「うん、せやった。憶えとるで……弥勒菩薩さまがある、確か、そう、新宝物殿という所の前で撮ってもろた。苔庭が綺麗で、ちょうど雨が止んで……」
その苔庭は、ここにも写り込んでいるのだが、これは、まったく違う写真だ。
「な? ほら、こっちの写真が私が撮ったやつやで? しゃんと普通にキレイに写っとるやろ?」
美和がスマホを操作して、1枚前に撮った写真を出した。
それは、聡子さんのスマホに保存されているもの――恋人に後で旅の解説をしようと思って美和に撮ってもらったのと、同じような写真だった。
「……で、こっちは」と、美和は最前の奇妙な写真を画面に戻した。
「これは絶対に写した覚えがあれへんねん! なんで撮れたのかわからへんし、ママ、このとき、自分のスマホをこんな風に掲げとった? これを見る限り、ママは明らかに、こっちに画面を向けとんなぁ? こないなことされたら、私もそのとき気がつくと思うんやけど……」
――その写真には、聡子さんの右半身しか写っていなかった。
左半身は完全に見切れて、左側の首の付け根より先は、画面のフレームからはみ出していた。つまり、顔も写されていない。
その結果、画面に向かって右の空間が、不自然に広く開いている。
背景は、濁った緑に滲んでいた。新宝物殿の前に広がっていた苔庭に違いないが、あったはずの瑞々しさが失われ、灰色に穢れているようだった。
そんな汚らしい緑をバックにした、画面の中央に、聡子さんのスマホが在った。
右手でスマホを持ち、肘を軽く曲げて画面を見せつけるように掲げているのだが、そんな不自然なポーズを取った記憶は無かった。
スマホに写っているものを娘に示しているとしか、解釈のしようがない格好だ。
そこに、いったい何が写っているのか?
一見、赤と黒と白とが、だんだら模様になっているようだった。
聡子さんは、美和の手からスマホを奪い取って、画面のその部分を拡大してみた。
……止めておけばよかった。
聡子さんのスマホに映し出されていたのは、漆黒の髪を、真っ赤に腫れあがった顔の両側に垂らした、白い着物の女だった。
昏く燃えるような瞳が、液晶画面の中から、聡子さんを睨みつけていた。
悲鳴をあげて、聡子さんが美和の膝へスマホを放り捨てると、美和が溜息をついた。
「やっぱり……。ママが絶対怖がるから削除しようかと思ったんやけど、これはヤバいやつやから、お祓いを受けへんとダメなんちゃう? 消したら余計にバチが当たるんちゃう? そんな気もしてきて、迷ってた。スルーするには、あんまりにも禍々しいやろ?」
「消して! お願いやから、そんなん消してもて!」
「せやから、お祓いせんと削除したら祟られるかもしれへんっちゅうとるねん!」
こんなふうに騒いでいれば当然のこと、
「何をゴチャゴチャ揉めとんの? その写真、消す前に、ウチにも見せて! もうじき、岸和田和泉で高速を降りる。ほんだら、ちょっと車を停めるから、ね?」
車を運転していた姉の桂子も、興味を抑えられなくなってしまった。
一般道へ入ると早々に路肩に車を寄せて、姉だけでなく母も一緒に、みんなであらためて美和のスマホを――怖い写真を――眺めることになった。
「これは凄いわ! 心霊写真って全部ニセモノだと決めつけてたけど、ちゃうのね。どこぞに投稿したら?」
「桂子ネエったら、他人事やと思って、そないなこと言って! 軽薄やな!」
母は、姉より時間を掛けて、つぶさにその写真を観察していた。
「こういうもんが写るっちゅうことは、聡子か美和に、悪いものが取り憑いたのかもしれへん……。なあ、聡子、彼氏には霊感があるって言ってたやろ? 彼に相談してみたら?」
「霊感がある言うても、拝み屋さんやないねん。……あ、せやけど……」
聡子さんは、先日、彼が話していた橋のことを思い出した。
「桂子ネエ、これから橋を三つ渡る?」
「三つの橋? 車で川を越えるかってこと?」
桂子がカーナビのマップを確かめようとすると、横から母が口を挟んだ。
「ちゃうよ! 高野山の山門を抜けると、参道に橋が三つあるのよ。わりと最近、テレビの旅番組で見たから憶えとる」
「ふうん。彼なら知っとるかな? 訊いてみよう」
「ほな、ぼちぼち車を出すよ。ぐずぐずしとったら日が暮れちゃう」
聡子さんは彼に電話を掛けたが、繋がらなかった。彼はあまり外出しないのに、間が悪いこともあるものだ。
しかし、美和が要領よくスマホで高野山・奥の院を検索して調べてくれたので、すぐに、三つの橋について、おおよそのことがわかった。
母の記憶どおり、山門(大門)より内側に、一の橋(正式名称・大渡橋)、中の橋(〃手水橋)、御廟橋という橋が架かっており、それらを渡って奥之院を目指すのが、スタンダードな参詣コースなのだった。
高野山へ辿り着けるのか――?
大門から奥之院までは、およそ2キロの距離。往復すれば1時間半だというが、高齢な母を伴っているので、2時間は見ておいた方がよさそうだった。
「桂子ネエ、何時頃に到着できそう?」
「道の混み具合によるけど、午後2時半から3時前後ってところやな」
「さよか……。じゃあ、宿坊にチェックインしてから観光しようと思ってたけど、そうやのうて、まず、奥之院に行かへん? あのね、彼から聞ぃたことなんやけど……」
聡子さんは、彼から聞いた、奥之院に至る参道で橋を三つ渡ると憑き物が落ちるという話をした。
「魂が浄化されたみたいで、参詣して宿坊で一晩寝たら、気分が良くなったって」
聡子さんがそう言うと、美和がスマホで何か忙しなく調べて、解説を施した。
「奥之院は、弘法大師が入定した御廟がある世界遺産なんやって。高野山で最も神聖な霊域で、お参りすると、弘法大師が出迎えてくれて、帰りは見送ってくれるんやって。
送り迎えするっちゅうても、千年以上前に成仏しとるんとちゃうって思うやろ? それがな、弘法大師は、高野山の真言密教では、まだ生きていて、修行中やねん。弘法大師は石室で即身成仏したんやけど、即身成仏っちゅうのは生きながらにして仏なるっちゅう意味やから、死んでも仏、生きてても仏ってことになって、死の概念を超越するんやって。
その弘法大師が、まず、一の橋でお出迎えしてくださるから、ここを渡る前に帽子を脱いで一礼せぇへんといけへん。
次にある、中の橋は、大昔にはここの川で身を浄めとったそうで、ここを渡ったら浄土に入るっちゅう意味があんねんて。奥之院は金剛界の御浄土にあたるから、知らんけど、三途の川を渡るような感じやない?
ほんで最後の御廟橋から先は、いよいよ弘法大師御廟の霊域で、この橋の下を流れるのは霊峰の清水。さらに、ここの橋板は36枚あって、橋を1とすると36+1で37で、これが金剛界37尊を表す上に、各橋板にも37尊を表す梵字がそれぞれ刻まれとる……」
母が目を丸くして美和を振り向いた。
「あんた、えらい詳しいなぁ! いつ勉強したん?」
「いつって、たった今や。勉強ちゃうで。高野山ガイドの解説をスマホで読みながら話してるだけやで。……せやけど、自分で言ってて、ちょっとワクワクしてきた。凄そうやん? ご利益ありそうやんな?」
「おばあちゃんも楽しみになってきよった。みんなして真面目に拝もな。ほなら、悪い霊なんか、弘法大師さまが追い払ってくださるで」
いつの間にか、聡子さんは恐怖が和らいでいることに気がついた。美和も朗らかな笑顔だ。母も、楽しそうにしている。
狐の嫁入り――お天気雨も終わったようだった。
いつの間にか、空は高く澄み渡っていた。
窓の外を眺めていると、国道480号線という路面標示が目に入った。
少し前から、すでにカーブの多い山道に差し掛かっている。
「どこから高野山が始まるの? それとも、ここはもう高野山なの?」
「まだ。でも……ほら! あの標識! 高野山入り口まで、あと6キロやって」
「ああ、なら、2時半までに着くね」
「中の橋のそばの駐車場に停めるつもりやけど、3時には大門をくぐってる計算や」
――ところが、そうはいかなかった。
高野山の町域に入って間もなく、何の前触れもなくエンストしてしまったのである。
不幸中の幸いで、ガソリンスタンドの真横だったので、すぐに見てもらったところ、オーバーヒートしていることがわかった。
「おかしいなぁ。ついこないだ整備に出したばっかしやのに……」
不吉だ、と、聡子さんは思い、同時に、例の写真を脳裏に蘇らせた。こちらを睨みつけている、異常に赤い顔をした女。あれは誰だ?
美和は、親のひいき目を抜きにして、そこそこ可愛い子だ。
誰からか妬まれて、恨みを買うような恋愛がらみの出来事があったのだろうか?
それとも、人から憎まれるようなことをした?
あるいは、娘でなく、自分が……?
心あたりは、まったく無かった。(後編へつづく)
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