大正の首里城に“生活の色” 城になじむ庶民の姿 戦前の写真見つかる

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1925(大正14)年に撮影された園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)に座る男女。写真の裏には「琉球の労働者」とだけ書いてある。園比屋武御嶽石門は、国王が出御の際、この前で道中の安泰を祈願したとされる場所(朝日新聞社提供)

 大正から昭和初期の首里城正殿や園比屋武御獄(そのひゃんうたき)石門などを写した紙焼きのモノクロ写真13枚が朝日新聞大阪本社で31日までに見つかった。中には、琉球処分から40年以上が過ぎた城で一般の人たちが働き、行き交うカットもある。3カ月前の首里城火災を受け、朝日新聞が戦前の写真をまとめて管理している大阪本社で探し出した。

 写真の裏に押されたスタンプなどから1921(大正10)~36(昭和11)年撮影とみられる。

1921(大正10)年に撮影した首里城正殿。劣化が激しいが、左の2階には女子学生と機織り機のようなものが見える。当時、首里区立女子工芸学校(後の県立女子高等学校)の校舎として使われており、学校の100周年記念誌によると、機織り実習室として使われていた(朝日新聞社提供)

 最も古い21年の正殿全体を捉えた1枚には、2階に機織り機のようなものと白っぽい服を着た人影が写り込んでいる。首里区立女子工芸学校(同年10月に首里市立女子工芸学校、後の県立首里高等女学校)の「機織室」だったという。

 25(大正14)年の写真には、休憩中なのか園比屋武御獄石門の前に座る男女の姿が見え、裏書きに「琉球の労働者」とある。

1925(大正14)年撮影の瑞泉門。美しい石段を、頭に物を載せた女性や、物を持った男性が行き交う姿が写る(朝日新聞社提供)

 首里城は1879年の琉球処分で明治政府に明け渡され、陸軍の熊本鎮台分遣隊が駐屯した。1909年に地元の首里区に払い下げられた。今回見つかった写真の撮影時期はその後に当たる。

 県立博物館・美術館の田名真之館長(69)は「かつては簡単に入れなかった城が、一般の人たちの暮らしになじんでいった過程が見える」と話した。

1925(大正14)年撮影の首里城正殿。左側には、国王が亡くなると次期国王の即位の礼が行われた「世誇殿」(よほこりでん)を移築した沖縄神社の社務所が写っている。(朝日新聞社提供)
昭和初期撮影の首里城正殿。写真裏の説明には「目下内務省ノ補助を得テ 修繕工事中」と書かれていて、日にちのスタンプは昭和5年となっている。解体修理は1928(昭和3)年から33(昭和8)年にかけて行われた。(朝日新聞社提供)
今回見つかった写真ではないが、1942(昭和17)年撮影の首里城正殿。改修を終え、正殿前には灯籠(とうろう)が立っている(朝日新聞社提供)
大正末ごろに撮影されたとみられる首里城正殿前の大龍柱。今の大龍柱と違い、正面を向いている(朝日新聞社提供)

 

漏刻門から瑞泉門の内側を写したもの。1925(大正14)年撮影。頭に重ねたかごを載せた女性が写る。城内が清掃されてきれいだったことがわかる。このアングルの写真は貴重だという。漏刻門はやぐらの中に水時計があったことから名付けられた。身分の高い役人も、国王に敬意を表してここでかごを降りたとされる。(朝日新聞社提供)
3人が首里城内で臼に入れた物を突いているように見える。1925(大正14)年撮影。裏には「女手伝いの壁土作り」と書いてある。同年6月12日付大阪朝日新聞の写真連載「琉球スケッチ」として掲載された(朝日新聞社提供)
撮影年不明だが、大正末~昭和初めにかけて撮影されたとみられる首里城内にあった沖縄神社。正殿の奥側にあり、県史によると1924(大正13)年に建立された(朝日新聞社提供)

 

1925(大正14)年撮影の「首里城内の石垣」。国王が日常を過ごした居室で廊下を通じて正殿までつながっていた二階御殿(にーけーうどぅん)辺りを写したものとみられる。(朝日新聞社提供)
1936(昭和11)年に撮影されたとみられる歓会門(かんかいもん)。歓会門は首里城の正門で、中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」など首里城を訪れる人への歓迎の意を込めて名付けられたとされる。(朝日新聞社提供)
撮影年不明だが大正末~昭和初めごろに撮影したとみられる守礼門。奥には歓会門も見える。修復作業をしていたのか、道の両脇には大きな石が置いてある(朝日新聞社提供)