ユーゴスラビアのカリスマ独裁者「チトー大統領」

今でも血みどろの戦争が行われている旧ユーゴスラビア。実はこの国にはとあるカリスマ的独裁者が君臨していた。

※軍服を着たチトー(1961年)

その人物の名はヨシップ・ブロズ・チトー

ユーゴスラビア共産党のリーダーとしてあの火薬庫と呼ばれた、バルカン半島の中でも特に不安定だったユーゴスラビアをまとめていた人物である。今回はそんなチトーについて紹介していこうと思う。

ヨーロッパの火薬庫 ユーゴスラビア王国について

※ユーゴスラビアの地図。今では泥沼の戦争が起きたのち、8つの国に分裂している。

まずはユーゴスラビア王国の状況について話していこう。

ユーゴスラビア王国は1918年のオーストリアハンガリー帝国崩壊によって、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人によってできた国である。

しかし、この国はさまざまな民族から構成されている国であり、とてつもなく政局が不安定だった。特にセルビア人と非セルビア人との対立は想像を絶するものであり、第二次世界大戦の時にはクロアチア人によるセルビア人大量虐殺を引き起こすという時代までに発展した。

第一次世界大戦の時のバルカン半島は欧米諸国から『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていたが、まさしくその名にふさわしいものであった。

チトー の生い立ち

チトーは1892年にオーストリアハンガリー帝国に生まれた。

ちなみに本名はヨシップ・ブロズであり、チトーという名は『お前があれをやれ』という横柄な意味で、チトーの冗談のネタがそのまま名前みたいになったものである。

チトーは小学校を卒業すると故郷からシサクというクロアチアの都市で錠前屋の見習いとして働き始めた。

最初の頃は真面目に仕事をこなしていたのだが、とある日チトーは共産主義の考え方に目覚め、メーデーや労働組合での活動を開始した。その後第一次世界大戦の時にロシア帝国の捕虜となってしまい、ロシアに強制的に過ごすことになってしまうのだが、知っての通りロシア帝国は1917年に十月革命が勃発して崩壊。

チトーはソ連の軍隊である赤軍の一兵隊として戦いに明け暮れ、ボリシェヴィキにも参加することとなった。

ゲリラ活動とソ連との対立

※ゲリラ活動をしていた頃のチトー (一番右)

ボリシェビキに参加して共産主義にどっぷり浸かったチトーは、1920年にユーゴスラビア共産党に参加。

スペイン内戦などで義勇兵として活躍し、どんどん功績を積み上げていった。そんなチトーに転機が訪れたのが1939年から始まった第二次世界大戦である。ユーゴスラビア王国は1941年にドイツによって侵攻を受けドイツに占領されてしまったのだが、チトーはドイツに抵抗するため徹底的なゲリラ活動を開始。ソ連や連合国の力を借りながら着々と抵抗運動を続けてきた。

1945年にドイツが降伏するとチトー率いるゲリラ勢力は王政を廃止して、ユーゴスラビア王国をユーゴスラビア社会主義連邦という名に変えた。さらにチトー自身は首相に就任して国を動かす立場の地位へのし上がった。

しかし、ソ連のスターリンはこれを気に入らなかった。ユーゴスラビアはスターリンの一国社会主義という形をとらず、よりにもよってスターリンの敵であったトロツキーの思想である国際共産主義の考え方をしたのである。

スターリンはユーゴスラビアを共産主義の集団であるコミンテルンから追放。ソ連とは国交断絶となってしまった。

チトー主義とユーゴスラビアの発展

※チトー大統領夫妻とアメリカのカーター大統領夫妻の写真。ユーゴスラビアはある程度のアメリカの交流があった。

ユーゴスラビアはソ連と断交してしまったが、そのおかげでユーゴスラビアはソ連の衛星国になることはなく、さらにアメリカなどの西側諸国との関係が悪くなることがなかった。

さらにチトーはこれまでの社会主義思想とは少し違う、チトー主義という考え方を生み出した。チトー主義というものは今でいうところの中国に近い市場社会主義をとり、さらに労働者中心の経営形である自主管理社会主義を設立していった。

さらに冷戦の時には西側諸国にもつかず、東側諸国にもつかない第三世界という非同盟陣営を作り、自身はその初代議長として冷戦を渡り歩いていった。

さらにチトーはユーゴスラビア最大の欠点である民族問題にも注力を注いだ。

チトーは各民族のバランスと融和を取るために民族の自治権をどんどん拡大していき、なんとか民族間の仲を取り持っていた。さらに社会主義国では珍しくチトー批判をある程度許し、言論の自由を守った。

こうした懸命な努力によってチトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなかったのである。

チトーの死とユーゴスラビアのその後

チトーは1984年にサラエボでオリンピックを開催決定させるとその直後、体調を崩していった。

ついには左足を切断するまで状態が悪化してしまい1980年5月4日に亡くなった。享年87歳。チトーの葬儀は国葬となり、東側諸国と西側諸国を問わず数多くの国の首脳たちが集まり、1989年の昭和天皇の大喪の礼が行われるまで最大規模の葬儀となった。

チトーの墓

その後のユーゴスラビアはサラエボオリンピックが終わるまではなんとか体制を維持することができたが、やはりチトーのカリスマによって成り立っていたユーゴスラビアを維持することは不可能であった。そしてついに1991年にユーゴスラビア紛争が勃発。

チトーがなんとか抑え続けていた民族問題が一気に爆発してしまい、ユーゴスラビアはここから血みどろの戦争が始まることになっていく。

(文/右大将 : 草の実堂編集部)(画像:wiki(c),public domain)

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