佳山明生「氷雨」のヒットと黄金の6年間、街に流行歌があふれていた時代 1983年 2月3日 佳山明生と日野美歌が「氷雨」でザ・ベストテンの今週のスポットライトに登場した日

その特徴はクロスオーバー、「黄金の6年間」のエンタテインメント

かつて、演歌にはメロディがあった。森進一の「港町ブルース」、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」、内山田洋とクール・ファイブの「そして、神戸」、中条きよしの「うそ」、細川たかしの「心のこり」、都はるみの「北の宿から」、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」、八代亜紀の「おんな港町」、小林幸子の「おもいで酒」―― etc.

どれも一聴してメロディが耳に残る、珠玉の演歌たちである。いや、当時僕らは、それらを “歌謡曲” あるいは “流行歌” と呼んでいた。もちろん、演歌という呼び名はあったが、あまりジャンル分けにこだわっていなかったと思う。要は、売れている曲はアイドルソングだろうが、フォークだろうが、演歌だろうが―― 珠玉のメロディを持っていた。街にはそれら流行歌があふれ、どれも耳に馴染みやすく、僕らはすぐに覚え、口ずさんだ。

実際、1978年1月19日に始まった『ザ・ベストテン』(TBS)では、出場歌手のジャンルは多岐に渡り、歌い終えた人々が座る後方のソファーには、アイドルとフォークシンガーと演歌歌手が隣り合う様子が日常茶飯事だった。

このリマインダーで、僕は昨年から『黄金の6年間』と題し、1978年から83年にかけて、エンタテインメント界で見られた現象にスポットライトを当てたコラムを連載している。その特徴の1つが “クロスオーバー” であり、様々なジャンルの曲が “売れている” ただ一点で集う『ザ・ベストテン』は、まさにその象徴だった。

消えていく歌謡曲、多様化のはじまりと新しい時代

『NHK紅白歌合戦』が最後に70%台を記録したのが1984年である。なんと78.1%もあった。嘘みたいな数字だが、本当の話だ。しかし、翌85年から『紅白』は視聴率が急落し、89年にはとうとう50%を切る。『ザ・ベストテン』で久米宏サンが司会を降板するのも85年で、その辺りから徐々に視聴率を落として89年に終了する。

85年に何があったのか。ざっくり言えば、その辺りで “歌謡曲” という呼び名が消えた気がする。ロック、ポップス、アイドルソング、演歌―― 皆、それぞれのジャンルで呼ばれるようになり、テレビにおける共演回数もグッと減った。クロスオーバーの時代は終わり、次の時代が始まろうとしていた。

何の話をしていたっけ?
―― おっと、演歌にメロディがあった時代の話だった。そうそう、中でも、僕が演歌史上最もメロディアスと思う楽曲が、今回の主役である。時に1983年2月3日―― そう、今から37年前の明日、『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に出演した佳山明生サンと日野美歌サンの歌う「氷雨」である。

絶望的に売れなかった「氷雨」その誕生はヒットの5年前

 飲ませて下さい もう少し
 今夜は帰らない 帰りたくない
 誰が待つと言うの あの部屋で
 そうよ誰もいないわ 今では

作詞・作曲:とまりれん。印象的な名前なので、当時、歌番組のテロップなどで目にして、覚えている人も多いと思う。同曲はとまりサンが音楽活動の傍ら、西麻布にスナックを開き、マスターをしていた時に作ったという。

それは、ある寒い雨の降る夜のことだった。閉店間際に一人の女性が入ってきた。彼女はカウンターに座るなり、誰に話すともなく、とつとつと失恋話を始めたという。もう店を閉める時間だったが、とまりサンはしばし彼女の話に付き合うことにした。そうして小一時間ほど、彼女はグラスを傾けながら語り、帰っていった。

その夜の出来事を、とまりサンは閉めた店内に一人残り、詞にしたためたという。そして生まれたのが「氷雨」だった。リリースは1977年12月1日。新人歌手・佳山明生サンのデビューシングルとして世に放たれた。そう、「氷雨」はヒットする5年も前に生まれたのだ。だが―― 絶望的に売れなかった。

 唄わないで下さい その歌は
 別れたあの人を 想い出すから
 飲めばやけに 涙もろくなる
 こんなあたし 許して下さい

信じて諦めなかった「佳山明生」実に4度のシングルカット

佳山明生サンは1951年、北海道は函館の生まれである。70年に作曲家の古賀政男最後の門下生として師事。73年には美輪明宏サンから現在の芸名を名づけてもらい、77年―― 26歳で歌手デビューする。だが、事務所が小さかったために、宣伝にお金を掛けられず、テレビやラジオで「氷雨」がかかる機会はなかった。そのため、地元の北海道を中心に、地道に全国のレコード店を回り、自前のキャンペーンで手売りするしかなかった。

だが、佳山サンは諦めなかった。目の前で聴いてくれた人たちは目を潤ませ、レコードを買ってくれた。有線も地味ながらリクエストが途絶えなかった。何より、佳山サン自身が「氷雨」に惚れ込み、名曲と疑わなかった。それは、同曲のリリース回数が物語る。なんと、都合4回も発売されたのである。

1977年12月1日:デビューシングルとしてリリース
1980年3月1日:4枚目のシングル「青春譜」のB面として再リリース
1981年12月5日:5枚目のシングルとして再々リリース
1982年7月21日:6枚目のシングルとして再々々リリース

一般に、僕らが知る「氷雨」は、最後の6枚目のシングル(再々々発盤)である。佳山サンの長年の努力がようやく報われた―― と言いたいところだが、コトはそう単純ではなかった。

ヒットの兆しは3人の競作、箱崎晋一朗と日野美歌もリリース!

佳山サンの再々々リリースから遅れること2ヶ月と少し、1982年10月にはベテラン歌手の箱崎晋一朗サンが「氷雨」を東芝EMI(当時)からリリース。さらにその2ヶ月後には、新人歌手の日野美歌サンも2曲目のシングルとしてユニオンレコード(当時)からリリースと、この年、「氷雨」は一気に競作となる。

ヒットの兆しは、皮肉にも3人目の日野美歌サンから火が点いた。彼女は大手芸能事務所であるプロダクション尾木の所属で、その売り出しには潤沢な宣伝費と、テレビやラジオとの強力なコネが働いた。そう、佳山サンが地道な地上戦なら、日野サンはいわば空中戦だった。元より名曲である。メディアに曲が乗れば、売れるのは時間の問題だった。

 外は冬の雨まだやまぬ
 この胸を濡らすように
 傘がないわけじゃないけれど
 帰りたくない

ジワジワと身に染みる佳山明生、有線に強かった理由とは?

そして「氷雨」は運命の年―― 1983年を迎える。
前年暮れの日野美歌版のヒットから火が点いた「氷雨」人気だったが、年が明けると、オリジナルの佳山明生版にも注目が集まり、さらに競作効果も働き、2人してオリコンのヒットチャートを駆け上がった。一方、有線でも同曲はランクを上げ、こちらは佳山版の人気が高かった。

2人の歌い方は対称的である。情感を込めて、歌い上げるのが日野美歌サンで、まるで歌のヒロインを思わせた。歌詞が女性目線なので、「氷雨」を初めて聴いた人には、こちらの世界観が入りやすいだろう。

一方、佳山サンはあまり感情を込めずに、淡々と歌う。最初は、ややあっさりした印象を抱いてしまうが、何度も聴くうち、ジワジワと身に染みる。特に女性は、佳山サンの歌に自分を重ねるという。繰り返し聴きたくなるのは、こちらの方だった。ゆえに有線が強かったのだ。

有名な話だが、八代亜紀さんは「歌に感情を込めない」のが信条だという。曰く「感情を込めると、歌は歌手自身のものになる。しかし、感情を込めずに曲の世界観だけを伝えると、聴き手がそこに自分を投影する」と。実際、銀座のクラブ歌手時代、感情を込めないで歌ったところ、ホステスたちが急に泣き出したという。以来、その歌い方は八代サンのスタンダードになった。

佳山サンもそのタイプだった。気づけば、オリコンでも佳山版が日野版をチャートで上回るようになっていた。

1983年を代表する一曲、黄金の6年間と「氷雨」の軌跡

彼の『ザ・ベストテン』の初ランクインは、スポットライトの初出場から2週間後、2月17日の9位だった。そこから5月5日まで、実に12週もベストテン入りして、最高位は3位。その間、日野美歌サンもランクインを果たし、2人の共演は8週間にも及んだ。

 もっと酔う程に飲んで
 あの人を 忘れたいから……

12月29日、『ザ・ベストテン』の「年間ベストテン」で、佳山版「氷雨」は4位に、日野版は21位と、2人して爪跡を残す。美しいメロディを持つ類まれなる演歌は、1983年を代表する一曲になった。佳山サンの手で初めて世に出てから、丸6年が経過していた。その軌跡は、「黄金の6年間」と見事に符合する。

よもや偶然とは言わせない。

※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

■ 前時代の歌番組を葬った「ザ・ベストテン」それは黄金の6年間が幕開けた瞬間!
■ 大瀧詠一とビートきよし、奇跡のクロスオーバーと類まれなるコミックソング
■ 日本映画最強タイトル「戦国自衛隊」薬師丸ひろ子も出演した青春群像劇!
etc…

カタリベ: 指南役

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