検事総長に求められるものは? 「厳正公平」「国民の支持」「恥を知る心」「巨悪摘発」

By 竹田昌弘

 検察の汚職捜査によって、大正時代の第1次山本権兵衛内閣(シーメンス事件)、昭和の斎藤実内閣(帝人事件)と芦田均内閣(昭電疑獄)、平成の竹下登内閣(リクルート事件)が総辞職に追い込まれたのを見ても明らかなように、政権と検察は本来緊張関係にある。過去の政権は検察の捜査を批判しても、人事への口出しは慎み、検察の独立性を尊重してきた。ところが、安倍政権は検察の意向に反し、高く評価する黒川弘務東京高検検事長が定年後も勤務を延長できるよう閣議決定し、今夏には検察トップの検事総長に据えようと図っているようだ。ただ政治主導の人事であっても、検事総長に求められるものは変わらない。歴代検事総長の発言などから、求められるものを整理してみたい。(共同通信編集委員=竹田昌弘) 

安倍政権によって法務省官房長から法務事務次官、東京高検検事長に順次引き上げられ、定年延長となった黒川弘務東京高検検事長=2019年1月

■「権勢に屈せず、大衆におもねらず」

 東京地検特捜部が1976年、田中角栄元首相(93年死去)や橋本登美三郎元自民党幹事長(90年死去)らを逮捕、起訴したロッキード事件。検事総長として捜査を指揮した布施健氏(88年死去)は77年3月の退任に先立ち、全国の検事長と地検検事正を集めた会議で「今後、情勢がいかに変化しようと、いずれにも偏らず、法にのっとり、組織を挙げて非違(法にたがうこと)の摘除(悪い部分を摘出して取り除くこと)に当たる検察精神と姿勢は不変と確信する」と最後の訓示を結んだ(以下、検事総長の発言などは元共同通信記者の渡辺文幸氏著「検事総長ー政治と検察のあいだで」と共同通信の配信記事による)。  

ロッキード事件当時、検事総長だった布施健氏=1983年9月

 退任の記者会見では、ロッキード事件について「配慮したのは、政治的にも騒がれたし、国民が関心をもってみているから、厳正公平な態度で臨まなければならないという点。国民の支持があったからあれだけのことができたと思う」と述べた。検察組織を率いる検事総長には、まず「厳正公平」と「国民の支持」が欠かせないとみられる。

 ロッキード事件の公判で81年10月、田中元首相の秘書だった男性の元妻が検察側証人となり「夫は(元首相への賄賂の)5億円の授受を認めていた」と証言し「ハチの一差し」と話題になった。当時の奥野誠亮法相(2016年死去)が記者会見で「検察は人の道に外れないよう留意することが大切だし、人倫をわきまえながらやってほしい」と発言。元妻を証人申請した検察を批判したと受け取られた。これに対し、検事総長の安原美穂氏(1997年死去)は「検察としては、常に社会に支持され、人倫の道に反しないよう心掛けている」と反論した。

「名を惜しみ、恥を知る廉恥の心」を説いた安原美穂氏=1983年10月

 83年7月、熊本地裁は被告の死刑が確定していた免田事件の再審公判で、無罪判決を言い渡した。死刑確定者の再審無罪は初めてだった。安原氏は検察幹部を集めた会議で「長年の星霜に耐える捜査をやれ。10年、20年たったら駄目になるようなものは、基本に忠実でない捜査が行われたからではないか反省する必要がある」と指示を出した。 

 同年12月の退任会見で今後の検察に望むことを問われると「時の経過に堪える検察。それは公正が基本であり、それを支えるものは、名を惜しみ、恥を知る廉恥の心だと私は信じる。公正、つまりフェアにいくということだ。貫くには勇気がいるが、権勢に屈せず、大衆におもねらず」と答えた。「公正」であるための「名を惜しみ、恥を知る廉恥心」は検察のプライドそのものだろう。 

■「被害者とともに泣く」「検察はワンマン会社ではない」

 「悪いやつを眠らせない」「被害者とともに泣く」「うそをつかない」。伊藤栄樹氏(88年死去)は85年12月、検事総長就任の会見で三つの信条を掲げた。東京地検特捜部で造船疑獄や売春汚職などの捜査を担当したほか、法務省刑事局では、当時急増していた交通違反に対する「交通切符」を考え出した。法務省刑事課長、人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などの要職を歴任した伊藤氏は「ミスター検察」と呼ばれた。 

「悪いやつを眠らせない」などが信条だった伊藤栄樹氏=1988年3月

 伊藤氏の下、検察は撚糸工連汚職でロッキード事件以来10年ぶりに国会議員を起訴する一方、神奈川県警による共産党国際部長宅盗聴事件では、警察庁警備局長と神奈川県警本部長らの辞職、幹部の異動などにより、再発防止が図られたとして、実行犯の巡査部長と巡査を起訴猶予処分にして捜査を終えた。伊藤氏はがんに侵され、88年3月に退官。お別れ会見では「特捜部の諸君が一丸となって『巨悪』をやっつけ、国民の期待に応えるのを祈るばかりだ」と現場の検事たちに後を託し、その約2カ月後に亡くなった。国民の期待に応えるためには、やはり「巨悪」の摘発が求められている。

 伊藤氏の後任は、前田宏氏(2018年死去)。就任会見では、伊藤氏を意識してか「検察はワンマン会社ではなく、総長が代わったからといって基本が変わることはない」と述べた。確かに、検察の基本は変わらないはずだ。

リクルート事件の捜査は「やりたいだけやれ」と指示した前田宏氏=1989年3月

 前田氏は、竹下内閣が1989年に総辞職する原因となったリクルート事件の捜査を巡り、東京地検特捜部に「やりたいだけやれ。遠慮することはない」と指示。特捜部はリクルートの元会長や元労働事務次官、元文部事務次官、NTT元会長らを次々に逮捕、起訴したのに続き、元官房長官の藤波孝生氏(2007年死去)らを在宅起訴した。

 当時自民党竹下派事務総長の梶山静六氏(2000年死去)や官房副長官だった小沢一郎氏らは「東京地検には関東軍がいる」などと批判し「検察ファッショ」の大合唱となったが、前田氏は1990年5月の退任会見で「検察の取り組みについて、各方面から種々のご意見があったので苦労した。検察としてなすべきことは最大限に行い、検察の基本にのっとった捜査処理をなしえたものと自負している」と胸を張った。与党の捜査批判に対しても、検事総長は毅然としていなければならない。 

■「気持ちとしては辞表をいつも懐に」

16年ぶりに国会議員を逮捕するなどして「気持ちとしては辞表をいつも懐に入れていた」と振り返った筧栄一氏=1990年12月

 東京地検特捜部は92年1月、鉄骨加工会社「共和」の政界工作を巡り、受託収賄の疑いで元北海道・沖縄開発庁長官の阿部文男衆院議員(2006年死去)を逮捕した。国会議員の逮捕はロッキード事件以来約16年ぶりだった。この共和汚職やバブル経済に乗じたイトマン事件などの捜査当時、検事総長は筧栄一氏(13年死去)。1992年5月に退任後、総長時代を振り返り「気持ちとしては辞表をいつも懐に入れていた。何事もなければいいと思いながらも、万一何かあって必要なときがくれば、堂々と対処しようと考えていた。検察の力が社会に評価され、期待が大きいときほど自戒する必要がある」と話した。検事総長は常に自戒し、何かあれば堂々と責任を取る。

ペンキがかけられた「検察庁」と刻まれた石の表札=1992年9月28日

 岡村泰孝氏(2011年死去)が検事総長を務めていた1992年8月、佐川急便グループの中核会社だった東京佐川急便の社長から、金丸信自民党副総裁(96年死去)へ5億円のヤミ献金が渡っていたことが発覚。特捜部は政治資金規正法違反の罪を認める上申書が提出されたことから、本人の取り調べもせずに金丸氏を略式起訴(罰金20万円確定)したが、上申書で済ませたことに怒った男性が検察合同庁舎前にある「検察庁」と刻まれた石の表札に黄色のペンキ入りの瓶を投げつけるなど、世論の大きな反発を招いた。 

「批判されたり、よくやったと言われたり…」と語った岡村泰孝氏=1992年5月

 93年3月、金丸氏は所得税10億円余りの脱税で逮捕された。この事件の捜査が端緒となり、ゼネコンから仙台市長や宮城県知事、茨城県知事らへの贈賄工作が発覚し、ゼネコン汚職に発展した。岡村氏は共同通信の取材に「批判されたり、よくやったと言われたりしたが、いずれも法と証拠の問題だ。法の壁、証拠の壁に突き当たることもある」と捜査の難しさを明かした。退任会見では「脱税は国民の関心の高い事件であり、政治家といえども厳しく対処しなければいけない。犯罪が悪質、巧妙化する傾向にあるが、検察は困難を乗り越えてほしい」と述べた。検察の本領は、困難を乗り越え、政治家の事件をやってこそ、発揮されるのだろう。 

■「検察庁法で独立した地位、圧力から遠ざけられた立場」

 岡村氏の後任として93年12月に検事総長となったのは、東京地検特捜部に計約14年在籍し「特捜の顔」と呼ばれた吉永祐介氏(2013年死去)。ロッキード事件の主任検事であり、特捜部長時代はダグラス・グラマン事件などの捜査を指揮した。「現場の人たちと手を携え、真に国民の信頼を得られるように努力し、この重責に応えたい」と就任会見で抱負を語った。検事総長になっても、赤ペンを持って供述調書などを読み、特捜部に指示を出していた。国民の信頼を得るため、陣頭指揮に立つときもある。

「特捜の顔」と呼ばれた吉永祐介氏=1995年2月

 吉永氏の総長時代は、ゼネコン汚職で新たに中村喜四郎元建設相をあっせん収賄の罪で、二つの信用組合の乱脈融資事件で、山口敏夫元労相を背任などの罪でそれぞれ逮捕、起訴したほか、オウム真理教事件の捜査が続いた。吉永氏は1996年1月の退任会見で「重大事件の指揮を執らせていただいたが、十分に国民が納得していただける成果を上げたと思う。検察がさらった『どぶ』にきれいな水を流すか、再び汚い水を流すかは国民の仕事であり、検察にそこまでの権限はない」と語った。確かに、吉永氏は国民に納得してもらうまで、どぶさらいを続けてきた。

「検察庁法でできるだけ行政、立法から独立した地位を与えられている」と語る土肥孝治氏=1997年11月

 四大証券と第一勧業銀行による総会屋グループ代表への利益供与事件、大蔵省と日銀の接待汚職、山一証券の粉飾決算事件、薬害エイズ事件などが続いた96~98年の検事総長は土肥孝治氏。97年11月に東京地検特捜部が創設50年を迎えた際の共同通信のインタビューで「独自に奥深い捜査、隠れた事件の捜査をするところに特捜部を置く意義がある。不正の規模が大きく、複雑化すると、時間をかけて解明する必要があるが、検事は公判もにらみながら法律家として証拠を見ることができる。また検察庁法でできるだけ行政、立法から独立した地位を与えられ、圧力から遠ざけられた立場にあることも大きい」との見方を示した。検察には、独立した地位と圧力から遠ざけられた立場が不可欠なのだろう。

■「国民から離れた司法危ない」「捜査をゆがめるのは自殺行為」

 99年7月から2001年6月まで、内閣に司法制度改革審議会が置かれ、審議会は法曹(裁判官、検察官、弁護士)の大幅増員と法科大学院の創設、裁判員制度の導入、日本司法支援センター(法テラス)の設置などを提言。その後、法整備が続き、制度改革は順次実現していく。 

 01年7月に検事総長となった原田明夫氏(17年死去)は「自己改革すべき点は速やかに実現すべきである。考え、反応する検察を心掛けて、関係者や国民の『胸に落ちる検察』を念頭に努力していきたい」、04年6月に原田氏の後を継いだ松尾邦弘氏は「国民に支えられる司法が一番強力だ。逆に国民から離れた司法というのは非常に危ない」、松尾氏の後任として06年6月から検事総長を務めた但木敬一氏は「司法は国民との距離を司法改革で大胆に近づけようとしている。検察も国民の意を深く鋭く受け止め、国民のための検察を目指していかねばならない」とそれぞれ改革を呼び掛けた。司法制度改革を通じて、国民の胸に落ちる検察、国民に支えられる司法、国民の意を深く鋭く受け止める検察は果たして実現しただろうか。 

司法制度改革が実行に移される時代に検事総長を務めた(左から)原田明夫氏、松尾邦弘氏、但木敬一氏=原田氏が2001年8月、松尾氏は06年6月、但木氏は09年5月

 但木氏は黒川氏と同じように、検察庁より法務省の勤務が圧倒的に長く、秘書課長や官房長、法務事務次官のときは同省の法案などを巡って国会や首相官邸に足繁く通っていた。ただ検事総長の就任会見では「検察は厳正公平、不偏不党が命。捜査をゆがめることは検察の自殺行為で、私は絶対しない」と宣言し、法務官僚ではなく、検事としての心構えを強調した。「但木さんの心は一検事のまま」と信頼を寄せる検事は多かった。検事総長の在任中、元福島県知事の汚職事件や元公安調査庁長官らを逮捕、起訴した在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の中央本部ビル詐欺事件、元防衛事務次官の接待汚職などの捜査を指揮した。

大阪地検特捜部の証拠改ざん・隠蔽事件で引責辞任した大林宏氏に代わり、検事総長となった笠間治雄氏=2010年12月

 大阪地検特捜部が捜査した郵便不正事件で10年9月、主任検事による証拠の改ざんと特捜部長らによるその隠蔽が発覚した。大林宏検事総長が引責辞任し、捜査一筋の笠間治雄東京高検検事長が後任に。改ざん・隠蔽事件を受けた検察改革として、特捜部の事件に取り調べ録音・録画の試行を拡大するなどしたほか、検察職員の使命や役割を初めて明文化した「検察の理念」を策定した。検察の理念は笠間氏から検察庁の全職員にメールで送られた。その一部は次のような内容となっている。検察官は独善に陥らず、謙虚に。

  「権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである。また、自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。同時に、権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する、謙虚な姿勢を保つべきである」

■2度も検事総長候補の異動拒み、前例ない定年延長に

  最後に黒川氏を巡る人事の経過をたどる。関係者によると、検事総長の人事は政権や与党などから口出しされないよう、3~4代先まで候補者を絞り込み、候補者は法務省刑事局長や法務事務次官、東京や大阪以外の高検検事長、東京高検検事長などを歴任していく。検事総長はおおむね2年が任期とされ、現職が自分の退任時期と後任の検事総長を最終的に決めるのが慣例だった。

現名古屋高検検事長の林真琴氏=2017年5月

 検事総長が大野恒太郎氏から東京高検検事長の西川克行氏に交代した16年夏の人事で、検察は次の検事総長候補で法務事務次官の稲田伸夫氏を仙台高検検事長へいったん転出させ、次の次の検事総長候補として法務省刑事局長の林真琴氏を法務事務次官に昇格させる方針だった。ところが、首相官邸はこの人事を認めず、法務省官房長の黒川氏を法務事務次官にするよう求めた。

 稲田氏が東京高検検事長へ異動する17年夏、検察は黒川氏を地方の検事長に異動させ、林氏を事務次官に就けようとしたが、またしても首相官邸に拒まれ、黒川氏は留任した。林氏は18年1月、上川陽子法相(当時)の意向で名古屋高検検事長に転出させられ、黒川氏は19年1月、東京高検検事長に異動する。

 18年7月に検事総長となった稲田氏は、この段階でも林氏を次の検事総長と考えていたとみられる。検察庁法は検察官の定年を検事総長が65歳、それ以外は63歳と規定し、黒川氏は63歳となる前日の今年2月7日で退官せざるを得ないからだ。同日付で林氏を東京高検検事長に異動させ、稲田氏の在任期間が2年となる7月に検事総長を交代する予定だったが、官邸は前例のない検事長の「定年延長」で黒川氏を残した。

 関係者は「黒川氏が法務省の官房長や事務次官として発揮した、法案などを巡る交渉力や調整力を首相官邸は高く評価している。また官僚くさくない明るい性格で、話しやすいので、菅義偉官房長官らは何かあると、相談していたようだ。検事総長の任命権は内閣にあり、7月に稲田氏が勇退し、黒川氏が検事総長となる可能性が大きい」と話している。

 そもそも検察権は行政権の一部だが、裁判の当事者となる準司法権的な性格もあるので、その独立性、中立性が揺らぐと、検察組織はもちろん、司法への信頼にも大きく影響する。安倍政権には、検事総長人事だけはこらえて、これまでの政権のような慎みを持ってほしかったが、無理な願望だったようだ。黒川氏には、検事総長に求められているものをかみしめてもらいたい。

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