やまゆり園事件の見えない1本の線 障害者が壊す障害者像 映画「インディペンデントリビング」を見て(上)

By 佐々木央

©ぶんぶんフィルムズ

 すべての人間のあいだに、見えない線を1本引く。その線の片側にできるカテゴリーは「意思疎通できる人」、もう一方は「意思疎通できない人」。できない人は安楽死させるべきだ―。神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で45人を殺傷したとされる植松聖(さとし)は、自分はそれを実行したのだと言い張る。

 私は心の中で「その線は無効だ」と言い返す。人の命に軽重はないと。あるいは、世の中に必要のない命など、ひとつもないと。またあるいは、何かの基準で人間を分け、どちらかに生きる意味を認めないという考え方自体が、誤りだと。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 逮捕後に彼に面会した人、文通した人の多くが、自らの経験や思索に基づいて、そのような考えをぶつけた。だが今のところ、彼の強固な思い込みは崩れていないようだ。

 それは私たちの社会に抜きがたくある傾きを、彼が確かに感受し、デフォルメして表現しているからではないか。その想像は私を怯えさせる。

 人種や民族や宗教によって敵味方を分ける。それらが自由の幅や生死さえ左右する。出自や地位、能力や容姿によって、得るものの多寡が決まる。そのことを半ば当然とする社会がある。そこから自由であろうとして、真に自由な人はいるのか。

 そう思っていた矢先、映画「インディペンデントリビング」(田中悠輝監督)に出会った。いや、たくさんの障害者に会ったというべきかもしれない。

 中年男性が夜、電動車いすで移動するシーンから始まる。バックに通天閣が映るから、大阪の新世界かいわいか。自室に戻る男性のあとから部屋に入るのは、新米ヘルパーの川崎悠司だ。まず男性の口に煙草をくわえさせ、ライターで火を付ける。男性の映像の下の方に「自立生活センター・ムーブメント代表、渕上賢治」と表示される。

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 渕上はくわえ煙草のまま、ヘルパーの川崎に指示を出す。「冷蔵庫にあるナポリタン、チンして」「ほな、ちょっとお茶」

 車いすの障害者なのに、くわえ煙草とは。ヘルパーに対する振る舞いは、主人が召使いに対するようだ。渕上は私の中にある障害者像を壊す。違和感を禁じ得ない。

 就寝前、渕上がベッドで過去を語り始める。17歳のとき、バイクで事故を起こし2年間入院した。頸髄損傷で首から下が動かなくなる。自宅で母親の介護を受け、引きこもった。

 生活が一変したのは15年後。母親が倒れ、そのまま亡くなる。障害者の自立を助ける「自立生活センター」を教えてもらう。ヘルパーが来て、外に出ようと誘われた。

 服を着るのも大変だからと断ったが、嫌だったらすぐに車いすからベッドに上げてやると言われて乗る。「まんまと罠にはまってしもうたんや」。つり込まれて川崎が笑う。

 こうして渕上は外に出た。6年後には自ら、自立生活センターを設立する。支援を受けながら、支援する側にまわったのだ。

 渕上に続いて映画に次々に登場する障害者は、みな個性的だ。渕上に壊された私の障害者イメージは、さらに粉々になっていく。それはどうやら、映画のタイトルにもなっている「インディペンデントリビング(IL、自立生活)」の運動に関係があるらしい。

 木下浩司郎(愛称トリス)は2016年、くも膜下出血で高次脳機能障害になった。右半身の麻痺があり、難しい漢字は書けるのに言葉がなかなか出ない。簡単な会話も難しい。だが、いつもにこにこしている。そして自立を望んでいる。

 自立生活センターの障害者スタッフがトリスに説明する。ヘルパーは賃金をもらって仕事として介助していること、だから遠慮してはいけないこと、トリスの指示を受けて初めて動くこと、好きなお風呂も諦めなくていいこと…。

 ここで初めて、冒頭の渕上が偉そうに見えた理由を理解する。渕上は自分で服を着られない。ひとりでは風呂にも入れない。では生涯リハビリを続け、2時間かけても自分で服を着ることを目指すべきか。IL運動はそうは考えない。それはヘルパーにやってもらえばいい。

 「自立」という言葉が、全く違った相貌をおびて立ち上がってくる。自立とは1人で何でもできることではない。自らの意思を持ち、その意思を実現することなのだ。

 IL運動における障害者と介助者は、与えられる者(弱者)と与える者(強者)ではない。人間として対等だ。大切なのは、例えば障害者自身が服を着るという意思を持つこと、そして、どの服を着るかを選ぶことだ。介助者はそれを実現するためのプロにならなければならない。

 トリスを介助する小角元哉は、トリスの笑顔の裏にあるものを読み取りたいと話す。トリスの真の意思を引き出し、理解することが課題だ。

©ぶんぶんフィルムズ 左端が笑顔のトリス。右から身を乗り出しているのが小角

 トリスはかつて塾講師としてしゃにむに働いていた。突然倒れ、言葉と半身の自由を失った。「笑顔の裏にあるもの」という小角の言葉から、トリスの笑顔の裏にある苦しみを、わずかに想像する。

 トリスは失語症だ。やまゆり園事件の植松が引く線に従えば「意思疎通できない人」というカテゴリーに入るかもしれない。だが映画を見れば、そうではないことがわかる。こちらが最初から回路を閉ざしているから、彼の意思が見えないだけだ。

 植松は事件の前に津久井やまゆり園で働き、障害者に接していた。だが、彼にとって重度の障害者は「意思疎通できない人」であり、生きる価値のない人たちになってしまった。障害者の実像は初めから見えなかったのか。それとも見えていたのに見失ってしまったのか。だとしたら、それはなぜか。(敬称略)=続く

 ■映画「インディペンデントリビング」の上映は大阪市淀川区の淀川文化創造館・シアターセブンで2月14日まで。3月14日から東京都渋谷区のユーロスペースで。

映画「インディペンデントリビング」を見て(下)

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