歴史の小箱 No.381

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■箱根石道の修繕「石道金(いしみちきん)」
昨年夏・秋の豪雨や台風では箱根八里の石畳にも被害がありました。現在でも通行止めになっている場所があり、修繕には多額の経費と時間がかかりそうです。今回は、江戸時代に石畳の修繕のために設けられた「石道金」とよばれる基金について紹介します。

江戸幕府は江戸時代前半の延宝八年(一六八〇)に箱根の坂道に石畳を整備しました。この経費は南伊豆の村々が幕府に上納しましたが、支払いが済んだ後にお金が余りました。幕府はこれを基金として積み立てて、伊豆の村々に貸し付け、その利子をもって毎年の石畳の修繕料を賄うこととしました。この基金はその由来や目的から「石道金」と呼ばれました。(当時は「石畳」ではなく「石道」という言葉がよく使われていました。)元禄二年(一六八九)頃に二百両で始まった石道金は年利一割から一割五分で運用され、元禄十五年には一三〇〇両以上にまで増えていました。このように石畳の修繕には潤沢な資金が用意できていたように見えます。
しかし、幕府代官の記録などを見ると、石畳の修繕に充てる予算が少なく、大雨が降るとすぐに大破してしまう、などといった記述が見られます。これはどうしたことでしょう。その理由は主に二つあったようです。
一つはこの石道金の貸し付けが半ば強制的に行われたものであったため、借主がもともと困窮していることが多く、利子を付けて返済するどころか元金すらまともに返せない場合が少なくなかったという点です。そのため、江戸時代後半の天明七年(一七八七)にはその時点の貸付金残高を無利子で三十カ年年賦にして返済させることにしたほどです。
もう一つは、石道金が本来の目的である石畳の修繕以外の用途に使用されてしまったことです。その用途とは宿場町の助成金です。江戸時代の宿場町は伝馬役と呼ばれる公的な人・モノの運搬の義務を負わされており、そのために苦しい財政状況が続いていました。しかし、宿場町がひとつでも財政破綻してしまえば、東海道の公的な人・モノの輸送が機能不全に陥ってしまいます。そこで、幕府はさまざまな宿場町支援をするのですが、その財源として潤沢な資金をもつ石道金が狙われたのでした。
たとえば、江戸時代後半には九〇八両の石道金が年利八パーセントで貸し付けられており、毎年七十二両ほどの収入がありましたが、そのうち五十七両が三島宿の助成金に回され、石畳の修繕には十五両が使われただけだったといいます。

※企画展「自然と生きる~水・竹・ワラ・石」を開催中「むかしの道具」をたくさん展示しています。