天海僧正は明智光秀だったのか?天海=光秀説の根拠を調べてみた

戦国最大の謎とされる『本能寺の変』、首謀者の明智光秀が生きていて天海僧正となり、徳川家康から家光まで三代の将軍に仕えたとされる説について調べてみた。

天海僧正とは

天海は、南光坊天海という天台宗の僧。天海の生まれなどはっきりとしたものがなく、死んだ時には100歳を有に超えていたとされ、生まれた場所や家柄も諸説があり、はっきりしているのは比叡山延暦寺で天台宗を学び、秀吉の小田原攻めに家康に同行し、北条氏滅亡後に家康と共に江戸に住み、天下取りを助けたことである。

その後、大阪冬の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」を画策、家康の死後「東照大権現」として神格化して日光に祀る、風水や陰陽道によって「江戸の都市構築」といった功績がある僧である。

同一人物と言われる理由

様々な明智光秀との共通点や、春日局が会った時の挨拶、延暦寺の石灯篭、筆跡。

僧でありながら武家・公家諸法度の起草をした点や、本能寺の変(家康陰謀説)、武田信玄・徳川家康との関係などである。

明智光秀との共通点とは

日光東照宮の陽明門にある随身像の袴や建物に明智家の家紋の桔梗紋(ききょうもん)が使われている。桔梗紋の家紋は明智家だけではないが、なぜその紋を使ったのかがまず不思議である。

日光東照宮の近くにある明智平という地名の名付け親であり、その際「明智の名を残す」と発言したこと。明智は本来美濃の国にある土地の名前なのに、どうして関東の日光東照宮近くに謀反人の名前を残したのかも不思議である。

加えて、現存する明智光秀と天海の書状の筆跡が似ているという説。

信長が明智光秀を家来にした理由として公家・皇室・足利将軍家に関することに精通していたことがあるが、天海も公家諸法度・武家諸法度制定に関与した。

僧なのに公家や武家のことに精通していたのも謎である。

家康が豊臣家に難癖をつけたと言われる「方広寺鐘銘事件」。

鐘に刻まれた「国家安康」という文字に対して家康の名前の間に文字を入れたことで分断を意味しているなどの無茶な難癖をつけ、これがきっかけで戦争をしかけられ翌年に豊臣家は滅亡。

こうした「軍師の才能」と家を断絶させる「戦国武将的な面」を天海は併せ持つ。

僧なのに豊臣家断絶のために非情になれるのも違和感を感じる。

春日局との関係

春日局が、天海と会った時に「お久しぶりでございます」と挨拶したと文献に残っている。

春日の局の父は明智光秀の重臣の斎藤利三である。春日局が幼子時代に明智光秀に会っていたのは自然なことと推測でき「お久しぶり」という挨拶にも納得がいく。

延暦寺松禅寺の石灯篭

明智光秀が死んだとされる山崎の合戦は1582年、石灯篭に「光秀」という名前が書かれた年は1615年。

信長の命令で比叡山焼き討ちをしたのは明智光秀。焼き討ちの首謀者として比叡山から嫌われていると推測できるが、誰が「光秀」の名前で寄進したのか?それは天海ではないか?という謎である。

本能寺の変(家康陰謀説)

本能寺の変は、戦国時代最大の謎であり「秀吉陰謀説」、「足利義昭陰謀説」、「家康陰謀説」もある。

本能寺の変があった時、徳川家康は少数の重臣と堺見物をしていて伊賀越えして危機を乗り越える。明智光秀は山崎の合戦後に逃亡中に農民に竹槍で刺されて死亡。

しかし、大手柄をした農民の氏名や恩賞などは公表されていないのである。

光秀の首や遺体に関しても、首を届けられた織田信孝が本能寺で晒したというのが定説であるが、首は複数あった上に腐敗が進み、本当に光秀の首かどうかははっきりしなかったとの説もある。

もし、裏で家康と光秀が手を組み光秀が死んだと見せかけ、その後に天海と名前を変えて家康と最後に天下を取ったと仮定すれば、家康のブレーンとして活躍するのも納得が行くのである。

天海=光秀説はロマンがある

明智光秀は、本能寺の変の後に根回しをしたにもかかわらず、数多くの武将に裏切られ、たった11日で山崎の合戦で秀吉に負ける。

しかし、頭が良い光秀はそのことも計算して二の案として徳川家康と裏でつながり、秀吉を騙して最終的に家康のブレーンとして天下を取るという筋書きが実現する。

天海は、100歳以上長生きしたとされる、もし、明智光秀が生きていたらその位の歳だろうし、生まれた時のことを謎にしているのも納得が行きます。

歴史のロマンとして、「天海=光秀説」はものすごく面白いし、あって欲しい説である。

(文/rapports : 草の実堂編集部)(画像:wiki(C),public domain)

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