不屈のノムさん、貧しく苦しい京都時代が原点 古里愛し続けた野球人

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オープンカーで郷里・網野町民の歓迎にこたえる三冠王、南海ホークス野村克也選手 1965年11月24日京都新聞掲載

 11日に84歳で急死した京都府網野町(現京丹後市)出身の野村克也さん。日本海を望む丹後から生まれた「スーパースター」の原点は貧しく苦しい峰山時代にあった。「貧困家庭で六畳一間の生活。病弱な母を楽にさせてやりたかった」と生前語っていたように、不運な境遇を不屈の努力で打ち破り名選手、名将として野球界に名前を刻んだ。

 峰山高(京丹後市)では4番捕手として活躍した。古里を離れた後も母校に用具を提供したり、講演で訪れるなど古里を愛した。

 悲しみの一報が伝わった同日も、同高グラウンドでは後輩たちが練習に取り組んでいた。同高が1999年春に甲子園出場した際には多額の寄付を行い、6年前には全校生徒に講演も行った。野球部主将(17)は「丹後から出た先輩は目標であり励み。僕らもその伝統のうえでプレーしている」と思いを込めた。

 野村さんの3学年後輩に当たり、野球部OB会長などを務めた金田米倫(よねのり)さん(81)=同市峰山町=は「網野の自宅から高校まで走って通学したという伝説がある。努力であそこまでの選手になり、後輩にとって励みだった」と語る。

 著名選手になっても古里への思いは変わらず、地元の料理屋「かさい食堂」(京丹後市峰山町)には足繁く通った。店主・笠井健治さん(55)の先代・故栄吉さんが峰山高で野村さんの2学年上という間柄。高校時代は栄吉さんが食事を振る舞っていたそうで、「(野村さんは)『あの時のうどんがおいしかった』と懐かしそうに語りながらうどんを食べていた。いつも父のことを穏やかに話してくれた」と惜しんだ。

 逆境に負けず、立身出世を体現した野球人生だった。「同じ京都出身のプロ。よく一緒に遊んだ」と懐かしむのは、京都市立第一工業学校(現洛陽工高)出身でプロで活躍した岡本伊三美さん(88)=大阪市住吉区。同じテスト生として入団した南海の先輩で、苦楽を共にした。印象深い思い出が、夏に一緒に訪れた京都・鴨川での納涼床。「ノムを含めて10人くらいで行き、『一緒に頑張ろう』と励まし合った」。1959年には巨人を破って悲願の日本一に輝いた野村さん。4連投した故杉浦忠さんを捕手としてリードし、「本当に勉強家。捕手が大事なポジションだということを知らしめた」とたたえた。

 府高野連顧問の新造彰さん(88)=京都市右京区=は、高校3年時の野村さんを鮮明に記憶している。京都教育大主将だった新造さんは、夏の京都大会に出場する峰山高に京都市北区にあった大学の練習場を提供。「体は大きくないけど、バッティングが抜群。こんな選手がいるんやと思った」。京教大への進学を勧めたが「『僕は大学に行く立場ではない。無理です』との言い方でやんわり断られましたね」。プロに進んで大成した京都球界の後輩に、「野村君がプロであんなに伸びるとは思わなかった。(84歳での死去は)早いです」と惜しんだ。

野村さんの母校の峰山高で、訃報を胸に刻み、練習に向かう野球部員たち(京丹後市峰山町・峰山高)