ベネチア襲った想定外の「アックア・アルタ」

昨秋の過去最悪級高潮 発生状況から現状まで

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記録的な高潮に見舞われたイタリア北部ベネチアのサンマルコ広場を歩く市長=2019年11月13日(ロイター=共同)

 イタリア北部ベネチアで昨年11月、記録的な高潮被害が発生したことを覚えているだろうか。歴代で2位となる水位187センチを記録し、市内の85%以上が浸水。その光景は写真や映像とともに衝撃的なニュースとして世界中を駆け巡った。とはいえ、今回の高潮の発生状況や、その後の様子については日本であまり報道されていない。そのせいか、今でも「ベネチア大丈夫?」と聞かれることも。現状を含めてリポートしたい。(イタリア語通訳=持丸史恵)

 ベネチアはアドリア海に面した潟(内海)に浮かび、街には運河が網の目のように走る「水の都」だ。一方で、近年は地球温暖化による海面上昇の影響などにより、特に秋から冬にかけて高潮被害がたびたび発生している。高潮には複合的要因があり、大きく分けると、直前までの降雨量、低気圧、そしてシロッコと呼ばれる南風などが挙げられる。

 当然ではあるが、街を囲む潟の水位は潮の満ち引きとともに変化する。その増減幅は通常の水位からマイナス50センチ~プラス90センチ程度。その範囲内であれば生活にも観光にも支障はない。例えば、観光の中心地サンマルコ広場。ベネチア本島で最も低い海抜約80センチに位置しているものの、水位がこれを少し超えたぐらいでは水たまりができ始める程度で、岸から水が押し寄せてくるわけではない。

 ▽アックア・アルタ

 水位が80センチを超え、島内で浸水が起きることをイタリア語で「高い水」を意味する「アックア・アルタ」と呼ぶ。ベネチア市は潮位予報警報センターを独自に設置し、日々の水位の予報をホームページなどで公表。アックア・アルタが見込まれる際には、携帯電話へアラーム・メッセージを送信したり、市内にサイレンを鳴らしたりして市民に警戒を呼びかけている。

 80センチを超えると、徐々に、排水溝や敷石の隙間からじわじわと水が姿を現し始める。90センチを超えるくらいから、広場や路地など水に漬かるところができ、注意が必要になる。

 だが、こうした「日常的」な高潮に対してはそれなりの対策が講じられている。

 まず、予報が80センチを越えると、市内の主な路地や広場には簡易の渡し橋が設置される。最も、市内全域をカバーしているわけではないので移動には長靴着用が望ましい。

ベネチアの広場に架かった細長い橋。高潮で水浸しになった広場を渡る歩道だ=2009年11月(ロイター=共同) 

 また、店舗や工房、住宅の多くは1階部分が路面より高く造ってある。さらに、扉などの開口部には高さ50~70センチほどの防水用のステンレス板がはめられるようになっている。高潮時にその板を取り付けると水圧で固定され、水の侵入を防ぐことができる。

 街が冠水したとしても、一旦満潮を迎えた後には水は引いていく。従って、アックア・アルタ発生時には、不要不急の場合以外は、室内待機が最も安全、安心だ。たいていは数時間もすれば何事もなかったかのように水が引く。河川の反乱や山崩れによる土砂などが押し寄せるわけでもないため、土砂をかき出すような作業は必要としないし、発生時の人に対する危険度も低い。

 しかし、昨年11月12日に「想定外」の事態が発生した。

 前日の時点から振り返ってみる。

 11日午前10時半時点で、翌日の水位予報は午前10時と午後10時55分の満潮時に130センチ。このレベルになると市内の広範囲が水に漬かる。1階にある店舗等では確実に浸水するため、商品などを一時的に高いところに上げる必要も出てくる。午後になると予報は上方修正され、それぞれ140、145センチに。

 12日午前4時半時点で、予報に変化なし。逆に、風があまり強くならなかったこともあり午前の満潮時の水位は128センチと、予想を大幅に下回った。市民たちにとっては拍子抜けだっただろう。

 ところが、午後7時半頃になると水位は目に見えてぐんぐんと上がっていったという。

 ベネチアの水位をリアルタイムでチェックできるアプリでは、午後9時を回った頃には、満潮までまだ2時間弱あるというのに予報の145センチをあっさりと超えた。時が進むと同時に数字はどんどん上がり、午後10時55分にはとうとう187センチに。観測史上最大の記録は、1966年11月4日の194センチ。いよいよあの日を超えるのか…と思わせたところでようやく、水位は下降に転じた。

 ▽「これは災害」

 過去最悪級のアックア・アルタはベネチアで暮らす人たちに大きな被害をもたらした。

マーブル紙職人アルベルト・ヴァレーゼさん、左手で示しているのは11月の浸水時の水位

 マーブル紙職人アルベルト・ヴァレーゼさんは、サンマルコ広場から徒歩10分ほどのところに工房を構える。工房は1階だが、水位130センチくらいまではまったく問題ない。

 あの日はそれ以上の予報が出ていたので、仕上げた製品や材料である用紙などをできるだけ高いところに移動させた。だが、夜になって2階の住居から外を見ると、目の前の運河の水が普段は見たことのないレベルまで上がっている。下の工房に様子を見に行くと、排水溝から水が上がり始めていた。

 結局、工房全体が浸水しいくつかの家具は処分せざるを得なくなった。冬期の作業に欠かせないガスヒーターも、水害対策のため高い位置の壁に取り付けてあったにも関わらず、水に漬かり故障した。

 ベネチア市が災害認定し補償すると発表したのは仕事に使う機械の買い替えのみ。暖房器具はもちろん、原材料や、何よりも完成していた製品などは対象にならない。別の場所に構える店舗でも被害が出たが、そちらも補償なしだ。ヴァレーゼさんは「ベネチアに暮らす以上、水には慣れている」としながらも、こう訴えた。「だが、これは災害だ。小さな事業主や市民をもっと支えるべきだ」

サン・トロヴァーゾ・ゴンドラ工房

 ベネチア観光に欠かせないゴンドラの製造・修復を手掛けるサン・トロヴァーゾ・ゴンドラ工房。今回の高潮で、時間をかけて乾燥させた貴重な材木が流され不明になった。だが、工房主のロレンツォ・デッラ・トッフォラさんはそれ以上に、工房の建物が心配だという。

 先代からほとんど手入れされずにきたレンガ積みの建物は、長年の高潮被害の結果、レンガとレンガの間を繋ぐモルタルがなくなってきており崩壊の危険すらあるという。「市に補助申請を出しているけど、どうなることやら」と首をすくめる。

ゴンドラ工房主のロレンツォ・デッラ・トッフォラさん

 市内では、在庫や商品など事前に全て高い場所に避難させ、大きな被害を免れた店舗や工房もあった。しかし、難は逃れてホッとするのもつかの間、130から160センチ級のアックア・アルタが、12日の翌日からも続き、翌月のクリスマス・イブまで6回も発生、100センチ以上のアックア・アルタは年末までに合計24回に及んだ。その度に商品を上げては下ろし、下ろしては上げてで体力を消耗した上に、結局その間はほとんど商売にならなかったという。

 ▽ベネチアの天使たち

 11月12日の浸水発生後、甚大な被害にあえぐベネチア市民らを救ったのは学生たちだった。

 ベネチアでは、観光地化の加速や自動車が使えない不便さに加え、高潮に嫌気がさした人たちが流出していったため、高齢化・過疎化が進む。その一方で、大学などの教育機関が多くあり、市内に暮らす学生たちも多い。高潮の影響で、数日間休講が決まったためもあるだろう、学生たちの間で誰からともなく声が上がり、ボランティア・グループが結成された。

 廃棄せざるを得なくなった大型家具や家電などの運び出し、清掃など、市民の手伝いに励む彼らの活動ぶりは、SNSなどであっと言う間に拡散。助けを求める声も、また参加者もどんどん増えていった。いくつものグループに分かれ「困っていることはないか」と、一戸一戸、ドアをノックして回っていったという学生たち。その活躍ぶりから「ベネチアの天使たち」と称された。

 ▽皮肉なことに…

 歴史的な高潮被害から2カ月たった1月。冬の好天に恵まれたベネチアを訪ねてみると、皮肉なことに、潮位が干潮時にマイナス60センチから50センチと、ちょうど潮位が特に下がる「アックア・バッサ」と呼ばれる現象が発生していた。ベネチアの市内の運河の深さは浅いところで2メートルから3メートル。マイナス50センチを下回ると、ゴンドラやボートの運行に支障が生じるところも出てくる。だが、これは「想定範囲内」だ。数時間経てば水位は上がるし、数日もすれば全く問題のないレベルでの満ち引きに戻っていく。

 市内各地のレストランや店舗などのほとんどは、ほぼ日常生活を取り戻しているように見えた。

 恐る恐る「あのときは…?」と尋ねると誰もが皆「ほんとうに大変だった。でも前に進まないと」と顔を上げていた。アックア・アルタは、ある。それがベネチアだから。これ以上は、こないことを願うけどね、と。

 オペラの殿堂、フェニーチェ劇場も被害を受けたがすでに通常通りの興行を行っていた。隣接するレストランも、当日こそ清掃などに時間がかかったものの、翌日にはオープンさせたという。

 本島南岸にあった新聞スタンドは、あの日、スタンドごと水にさらわれて跡かたもなくなってしまった。今は、近くの教会の小さなスペースを仮店舗にしており、元のスタンドが戻るのは3月を予定しているという。

 一方で、クリムトの作品などを所有することで知られるカ・ペーザロ現代美術館は、電気系統に障害が発生したため閉館を余儀なくされている。1月現在でまだ、再開のめどは立っていない。

 ベネチアの冬の観光の目玉であるカーニバルは、今年は2月8日から25日に開催される。テーマは「ゲーム、愛と狂気」。華やかな衣装と仮面に身を包み美を競う参加者らが一人でも多く、そして彼らに彩られた街目当ての観光客が大勢押しかけて、元気なベネチアを楽しんでくれることを市民らは切に願っている。

8日に開幕したイタリア北部ベネチアのカーニバルで、船をこぐ人々(ロイター=共同)