謎の阿比留文字 一体誰が何の為に作ったのか? 京都の鬼門、金毘羅山にある石碑と石柱 一見するとハングル文字に見えるのだが…

ハングルにも見えるが阿比留文字との事。が、謎だ。

三千院や寂光院で知られる京都市左京区大原にある金毘羅山は、山麓に大原八ヶ町の氏神を祀る江文神社があり、古くは江文山と呼ばれてきた。金毘羅山の中腹には平安京の鬼門を護る琴平新宮(金毘羅宮)もある。山頂には、『三壷大神(みつぼおおかみ)』と呼ばれる『火(日)壺』『風壷』『地壷』が祀られている。

かつては雨乞いの儀式が行われたと伝えられ、日本神話成立以前の神々や、超自然の力を崇めた古神道における磐座(いわくら)という説がある。古事記や日本書紀に記録された神話には、大和朝廷を作った高天原系の天津神と出雲系の国津神が登場するが、三壷大神については、歴史は沈黙している。

神話や古記録に登場しない神名であり、手塚治虫の『三つ目がとおる』に描かれたような超古代文明の痕跡のようなロマンがある。それ故、パワースポットやスピリチュアル好きな観光客に人気だという。

三壷大神の他にも、金毘羅山には誰が何の為に作ったのか地元民さえ知らないセメント製の石碑や石柱が存在し、インターネットの個人ブログにも紹介されているので、この謎の石碑と石柱について探ろうと思う。

金毘羅山には三つの峰があり、三壷大神が祀られた第一の峰から、最高峰(三角点)に続く尾根道の岩上に、『天之御中主之命』『大国主之命』『魔王大神』と掘られた石碑と、石碑の左に『清源大神』、右に『時津大臣』の小型の石柱がある。天之御中主命(神)と大国主命は有名だが、魔王大神は聞き慣れない神名だ。

安倍首相の別荘のある山梨県鳴沢村に魔王天神社があるが、関わりはなさそうだ。仏道修行を妨げる天魔である第六天魔王を祀った『第六天神社』とも違うようだ。清源大神や時津大臣も、神話や古記録には見当たらない。

神道家やカルト・ジャーナリストに金毘羅山の石碑の写真を見せると、新宗教『璽光尊』が関係しているのではないか、と言われた。

璽光尊とは、1947年に『璽光尊事件』として報道された『璽宇』の教祖・長岡良子氏のことだ。当時は横綱の双葉山関や囲碁の呉清源棋士も信者だったことで話題になった。清源大神の石柱は呉清源氏。時津大臣の石柱は、時津風親方のことと想像される。魔王大神は、琴平新宮に祀られている崇徳上皇と思われる。上田秋成の『雨月物語』で怨霊が魔王となって西行法師と論争する第75代天皇だ。

石碑のある尾根を少し下った見晴らしの良い場所にも、巨大な石柱が建っている。高さは3㍍を超え、縦横20㌢前後はある。重さは400キロ程度ありそうだ。これだけの石柱を、人力で麓から山頂まで引き上げるのは至難の業だ。現地で木枠にセメントを流して作ったにしても、材料を運ぶのに20人は必要だろう。

石柱にはハングル文字に似た神代文字『阿比留文字』が彫られている。『ワメノミナカヌシオオカミ』と読めるが、本来は『アメノミナカヌシオオカミ』のはずだ。肝心の神名が間違っている。ただし、ハングル文字の「ア」は、阿比留文字の「ワ」と同じだから、単純なミスとは言い切れないかも知れない。

筆者の調査では、石碑と石柱は作られた時期が違う。石碑は1980年頃からあるが、巨大な石柱は1990年以降に出現し、二代目だった。目撃者によれば、最初の石柱はハングル文字が刻まれており、今よりも小さかったそうだ。初代の石柱が倒壊したか、引き抜かれた後に、二代目の石柱が建っていたという。

璽宇は、1984年に璽光尊が死んだ後は、宗教活動をしていないので、石柱を璽宇の信者が建てたとは考えにくい。

ある人は、韓国の風水師の仕業ではないか、と疑う。韓国では『日帝風水謀略説』に基づき、韓国の山から”日帝の呪いの鉄杭”を引き抜く『歴史立て直し事業』が行われてきた。

彼らが日本に出張し、”お返し”をしてくれたのではないか、と言うのだ。たとえそうだったにしろ、植民地にキリスト教を布教した列強の帝国主義を見習い、ソウル市に朝鮮神宮を創建、日本の神や天皇を祀って現地の人々に参拝させたのだから、お互い様と言えよう。

まあ、風水を信じない現代の日本人に験があるのかは、神のみぞ知るところだ。(文◎品幽子)

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