安楽死選んだパラ金メダリスト、見送った両親は今 相模原殺傷の植松聖被告が使う「安楽死」は誤り

By 佐々木田鶴

 「今日、マリーケのアパートの鍵を返すから、最後にお別れに来てもいいよ」。1月31日、マリーケの父ヨスから筆者のもとへ突然連絡が入った。

 車いすの元陸上選手マリーケ・フェルフールトさん(享年40歳)。2012年ロンドンパラリンピックで金メダルを獲得、16年のリオでも銀メダルを手にし、ベルギーでは誰でもが知る女性アスリートだ。わたしは17年、彼女の日本旅行を手伝ったことをきっかけに知り合い、以来大切な友人となった。

 彼女が宣言通りの安楽死を遂げてから3カ月。ご両親は、マリーケが5年余り自立して住んだアパートを、涙とほこりにまみれながらようやく片付け終えた。車いす生活者用に市が提供するアパートに、マリーケが暮らした形跡はもう何もない。

 ベルギーでは02年に合法化され、毎年2千人以上が安楽死を選んでいる。19年10月22日、マリーケは「安楽死にふたをせず、きちんと議論してほしい」と訴え続けて「その時」を自分の意志で決めた。進行性の脊髄疾患による激痛で、晩年苦しみぬいた娘を見送ったばかりの両親は今、どんな風に思っているのだろう。(ブリュッセル在住ジャーナリスト、共同通信特約=佐々木田鶴)

記者会見で安楽死の手続きについて話した、陸上女子400メートルの銀メダリストのマリーケ・フェルフールト=リオデジャネイロ

 ▽マリーケが命がけで伝えた安楽死の意味

 日本では今、16年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件の公判がいよいよ始まり、植松聖被告が使う「安楽死」という言葉がメディアに繰り返し登場する。この言葉は、本来、慎重に議論されるべきものだ。それが「本人や家族を楽にしてあげるために殺すべきだ」というようなニュアンスに解釈されそうで、不安がよぎる。

 法的な、そして倫理的な是非は別として、安楽死は本来、本人が自由意志で望んだ時に選択できる方法だ。第三者が、すべきだとかすべきでないとか、言うようなものではない。相模原殺傷事件の植松被告の使い方は、完全な誤りだ。

 津久井やまゆり園での悲惨な事件が起こった同じ年、リオ・パラリンピックで、意図に反して安楽死の準備を進めていることが知れ渡ってしまったマリーケは、あわてて「準備はしているが、すぐに実行するのではない」と記者発表せざるをえなくなった。こうしてマリーケは安楽死のアイコンのように語られることが多くなってしまった。

 マリーケの父ヨスは、言葉を選びながら慎重に語る。「マリーケは、安楽死という選択肢を得たことで、人生のすべての瞬間を最後まで自分らしく楽しむことができた。私たち自身は積極的推進者ではないが、安楽死という選択肢があることの意味を十分に理解する」。ヨスは、地元の中高(ベルギーでは中高一貫教育)で校長を務めた人物だ。

 確かに、マリーケが問いかけたことは「安楽死がデリケートなテーマだからと避けて通らずに、誤解を恐れずに議論し、必要とする人にその道が開かれるようにしてほしい」ということだった。それは、自身の命を通して得た信念に基づく、魂のメッセージだ。

競技終えたマリーケ

 ▽やり遂げる意志力

 マリーケはどんな子どもだったのだろう。「お人形より車のおもちゃを好むような、元気でスポーツ好きの、芯の強い子どもだった」と母オデットはいう。

 初めて足にぴりぴりするような感覚を訴えたのは思春期の頃。次第に足の自由が効かなくなり、けいれんや痛みが始まった。医師や病院を駆けずりまわっても、病名も原因もわからぬまま「心の病」とさえ言われて、民間療法や厄よけにすがった時期もあったのだという。

 少女時代の夢を一つ一つ失いながら、20歳になる頃には車いすの人となった。だが、そのことは、夢に向かって突き進むマリーケの力にブレーキをかけはしなかった。

 マリーケは、自分にWielemie(ウィールミー=車いすの私)とニックネームをつけた。バスケットボール、ヨット、スキューバ・ダイビング、トライアスロン、そして短距離陸上と次々にチャレンジした。けがや病気の悪化で壁にぶち当たっても立ち上がり、さらなる夢を見つけて挑戦し、国内や世界のパラスポーツの記録を更新し続けた。

 最初にメディアの注目を集めるようになったのは、2012年ロンドンでのパラリンピックだった。介助犬ゼンを膝に乗せて入場し、大方の予測とは裏腹に、金メダルを獲得したからだ。

 帰国すると、祝福に駆けつけた数千人ものパラスポーツ支援者やメディア関係者とともに、地元ディーストの街を凱旋(がいせん)パレードで練り歩いた。こうしてウィールミーは、障害者に夢と希望を与えるスターとなっていった。

最後まで自立してアパートで暮らしたマリーケ (c) Taz

 ▽耐え難い痛みと苦しみの果てに

 長い間、マリーケは両親にさえ、痛みや苦しみを隠し続け、運命を呪ったり、健常者をうらやんだりすることはなかったという。だが、次第に病状が悪化し、気を失うほどの全身の激痛とけいれんが頻繁になった。絶叫してのたうちまわるようになると、もはや隠すことはできなくなった。うつ状態に陥り、自殺ばかりを考えたと、マリーケから聞いたことがある。

 緩和治療のために、W・ディステルマンス医師を受診したのは08年のこと。もうどうにも耐えられないと判断した時、そこに安楽死という選択肢があることを知った。

 マリーケは、証人とともに行政にその意志を届け出て、ディステルマンス氏以外の必要な医師たちの診断を受け、安楽死に必要な手続きを粛々と整えた。命の操縦かんを握るのは自分で、最後を引き受けてくれる医師もいる。進行性の重篤な病気を持ち、痛みによる苦痛が激化して制御できなくなる日が近い将来くること知っていたマリーケに、それは生きる底力を与えたのだった。

マリーケ自身が詳細まで演出した葬儀。真っ赤な棺が心にしみた©Eddy Peeters

 ▽あけっぴろげで冗談好き

 安楽死の意志を貫いた鉄人のような根性の持ち主―。マリーケにそんなイメージを持っていないだろうか。父ヨスはいう。「自然で、外交的で、いたずら好き、存在感のある、そんな子だった。とにかく、純真で表裏がない。あけっぴろげで、思ったことをすぐ口にしてしまうから、親としてはちょっとドギマギする場面もあったけどね」

 「冷蔵庫にはいつでも大好きな『ダファルガネッケ』(発泡性ワインのこと、市販の鎮痛剤の名前からマリーケが付けた独自の愛称)が冷やしてあって、いつでも友達がやってきて、わいわいやるのが大好きだった」と母オデット。

 自分の死を着々と準備し、葬儀セレモニーの場所や演出の詳細までを決めて、ノートにびっしりと書き込んでいったマリーケ。18年初めには準備が整っていることを誰もが知っていた。だが、その頃オデットがインフルエンザをこじらせて(こんすい)状態に陥った。

 ヨスは「2人同時はさすがに辛すぎる、もう少しだけ待ってほしい」と懇願した。19年5月、40歳の誕生日には、親しい友人たちに、大きな仏像が欲しいとリクエスト。届くと庭に置いて満足そうに眺めていた。

 医師の都合で「その日」が決まらずイラついていた夏には、突然、ランボルギーニに乗るイベントを計画してはしゃいだ。モルヒネなど強い鎮痛剤の常用で意識がもうろうとし、嘔吐(おうと)を繰り返し、頻繁に失神。そんなふうに激痛が繰り返し襲っても、9月終わりにおいっ子が生まれるのを楽しみに踏ん張った。

 10月初め。とうとうその日を決めた。「(マリーケは)完全に禅の境地に達したみたいだった。その瞬間を、穏やかに心待ちにしているように見えた」とヨスは言う。

 その日、安楽死のために病院を退院。親しい友人たち、親族、妹と生まれたばかりのおいっ子、両親に別れを告げて、医師からの最後の意思確認にも毅然(きぜん)と答え、静かに落ち着いて旅立ったのだという。数分後、キッチンで、パンという音がして、寝室にいた両親にグラス入りのダファルガネッケが運ばれた。マリーケの仕業だった。

合言葉 Believe You Canが書かれたカード(c) Taz

 ▽安楽死が生きる喜びと力を

 安楽死という選択肢があったことが、マリーケに生きる喜びと底力を与えた。逆説的ではあるが、マリーケ自身がそう語り続け、両親もこれに同意する。

 一家の地元ディーストは、ブリュッセルから東に50キロほど行ったオランダ語圏の小さな市だ。没後、マリーケは「名誉市民」とされ、陸上大会や新しくできる総合スポーツ施設には、マリーケ・フェルフールトの名前が付けられることになった。「新しい通りの名前にもなるんですって。アンネ・フランク通りの隣なのよ」。ちょっぴり誇らしげにオデットが教えてくれた。

 葬儀の日。マリーケが選んだ真っ赤な棺を前に、父ヨスが読み上げるしっかりした声が数百人もの弔問者の間に響いた。「マリーケにやり遂げる力があったのだから、私たちもあやからねばならない。あきらめずに。We don’t give up,Marieke」

 マリーケの両親は、残された「孫のような」介助犬ゼンと、静かに暮らしている。

郵便受けに貼られた日本語の介助犬ステッカーが、マリーケのアパートの最後の名残だ (c) Taz

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