『これでもいいのだ』ジェーン・スー著 私たちは私たちの手で幸せになる

 おかしいぞ、という自覚はあるのだ。第二次ベビーブーム絶頂期に生まれ、「就職超氷河期」に就職活動をし、ただひとつの内定も取れず、だから社会から何のスキルも叩き込まれることのないまま、なんとなく得意だった文章書きの仕事にもぐり込み、見よう見まねで雑誌のインタビュー記事などを書いていたら、お得意さまだった雑誌媒体の多くが廃刊に追い込まれ、40をとうに過ぎてもなお、大いに食い扶持に困っている自分。こういうのを巷では「しくじり世代」と呼ぶらしい。

 同世代をもがいてきた(であろう)者たちの中で、ジェーン・スーは今、はっきりと成功者である。平日昼間のラジオ帯番組のメインパーソナリティ。華やかな女性誌でエッセイを連載。それを本にまとめたり、ジャンルを超えた対談本なんかを出そうものならベストセラー。『貴様いつまで女子でいるつもりだ問題』や『生きるとか死ぬとか父親とか』は、折に触れ私を励ましてくれる名著である。

 そんな彼女が、人生についての本を出した。どうやら、どんな生き方もアリなのだと、人生の多様性を許容してくれる一冊であるらしい。まさに、まさにそういう本が欲しかった。家族を持たず恋愛もせず、派遣バイトと自宅との往復でいっぱいいっぱいな私を、スーさんはどんなふうに許してくれるのだろう。

 最初の書き出しが、こうである。「気の置けない女友達と、よく食べ、よく笑い、よくしゃべること。私にとって、これ以上の滋養はない。」ほお、そう来たか。結婚や育児、転勤、老親との同居。もはやごまかしきれなくなった価値観の相違。それぞれの事情で散り散りに暮らす「友」という生きものたちと、これまでの人生で一番疎遠に暮らしている今の自分には、若干モヤッとくる一文である。

 ……とまあ、こんな具合で中年女は、とかく「モヤッと」に知覚過敏である。ちょっとでも「モヤッと」があればいち早く勘付き、その場で駆逐して、常にすっきりさっぱり生きようとする。だって私たちは、私たち自身の手によってしか、幸せになれないことを知っている。神様も王子様も現れない。私たち自身が、すっきりさっぱりできているかどうかが、日々のすべてを占うのだ。

 その点において、スーさんはとても正直である。心に生じた小さな「モヤッと」を見逃さず、でもそれを物欲しげに憂うのではなく、すっきりさっぱりするために全力で考える。間違っていたのが自らであればそれを素直に恥じるし、おかしなことがあればそれを抗議でも攻撃でもなく指摘する。さりげなく、それでいて率直に。

 そのターゲットは、味自慢の餃子屋から、「女」であることで何かを決めつけてくる社会全般まで、実に様々だ。読みながら、ひとつずつ、こちらもすっきりさっぱりしていく。悲しい事実はある。抗えない現実もある。でも、それらのやっつけ方ではなく、付き合い方を私たちは知っている。だから、大丈夫。この人生、これでもいいのだ。

(中央公論新社 1400円+税)=小川志津子

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