ポルシェとの死闘、「スカイライン伝説」を巻き起こした“もう一人のドライバー”

今年の年明け早々、日本を代表する名レーシングドライバーの訃報が届きました。砂子義一、享年87歳。第2回日本グランプリで誕生したスカイライン伝説をはじめ、日本のモータースポーツを最後まで見守った名レーサーのお話です。


モータースポーツが国民的な人気を得た時代

名捕手にして名打者、そして名監督など、どのようにでも表現できた野村克也さんの訃報を聞き、今年亡くなられたクルマ界のレジェンドのことが頭に浮かびました。砂子義一(すなこよしかず)さんです。といっても多くの人たちはほとんど知らないでしょう。野村さんが、長嶋茂雄さんや王貞治さんの陰に隠れ、自らを“月見草”と表していましたが、砂子さんのレーシングドライバー人生も、どこか似た一面がありました。

それを象徴するレースといえば1964年に開催された第2回日本グランプリです。このレースは今では想像できないほど、日本中の注目を浴びていたグランプリで、日本のトヨタ、日産、プリンス自動車、日野、いすゞ、富士重工、本田技研、東洋工業、三菱、鈴木自工などほとんどの国内メーカーがプライドをかけて戦っていました。そのメインレースと言われたのが、あのポルシェ904とプリンス・スカイラインGTとの激闘から“スカイライン伝説”が生まれたGT-IIクラスです。

そして、このレースにも前年の1963年に2輪ライダーからプリンス自動車と契約して4輪レーサへと転身した砂子さんも走ることになっていました。ステアリングを握るのは今でも伝説の名車として知られる「スカイラインGT」です。

第2回日本グランプリ当日の砂子さん

前回の第1回日本グランプリで惨敗していたプリンス自動車にとって、このレースは是が非でも勝たなければいけません。そこでプリンス社内の公募で社員ドライバーを4名、砂子さんを始めとした契約ドライバー3名を最終的に選出し、これがいわゆる“プリンス・7人の侍”が誕生した瞬間でした。そしてGT-IIクラス制覇のために用意された7台のプリンス・スカイラインGTでレースが始まりました。

後に砂子さんご本人に聞いたのですが「はじめは誰も俺に期待などしていなかった」そうです。

やはりチームの花形レーサーは父が著名な洋画家で、見た目もモデルのようだった生沢徹さんだったといいます。「工業高校出で、二輪上がりの俺なんか期待されなくても仕方ないよね」と本人は笑っていましたが、意地だけは見せようと走ったそうです。すると、なんと予選では生沢さんに次ぐ2位。そのまま本戦を走るのですが、ここでひとつ強敵が立ちはだかりました。

大きな壁に果敢に挑む

突然このレースに参戦してきたのが式場壮吉さん、そして彼が乗るポルシェ904でした。最高出力180馬力、車重はわずか650キロ、その最高速は260キロという性能でした。一方のプリンス・スカイラインGTは、チューニングによって最高出力はようやく150馬力まで達成していましたが、その最高速は国産最高速とは言え時速170キロだったそうです。

突然現れた、まさに異次元のスーパーカーだった式場さんが乗るポルシェ904

さらにポルシェより30センチも背が高く、まるでダックスフンドのようなスタイルで車重は1トンを超えていたのですから誰もが「勝ち目はない」と考えていたそうです。「昨日まであれほどたくましく見えていたスカイラインが一気に貧弱に見えるから不思議なもんだね」と砂子さんはその衝撃を話してくれました。

でも本戦レースは始まります。ポルシェは予選中にクラッシュし、大きなダメージを負いながらも、徹夜の修復作業を経て本戦に挑んで来ました。そしてレースがスタートすると予選3位だった式場さんが一気に加速し、第1コーナーまでにトップに立ち、それを予選1位のカーナンバー41、生沢徹さんが追い、続いて予選2位だったカーナンバー39の砂子さんが、追従するという展開となったそうです。

スタート直後。ポルシェ904を先頭に第1コーナーになだれ込んでいく

「驚くほど安定した走りを見せるポルシェを我々のスカイラインGTは、なんとも激しいドリフト走行で追うという展開になった」といいます。

そして迎えた7周目。遅いクルマに手こずる式場さんを生沢さんが、その遅い車共々、2台をまとめてヘアピン手前で抜き去り、そのままトップに躍り出た状態でポルシェ904を従え、ホームストレートに現れました。当然、ポルシェには勝てないだろうと思っていたメインスタンドの観客は総立ちとなり、大歓声を送ります。3位を走っていた砂子さんはその様子をずっと後ろから見ていました。

「あの会場の異様な盛り上がりは走りながらでも感じることが出来たよ」だったそうです。

これが世に言うところの“スカイライン伝説誕生の瞬間”です。この時、砂子さんは「さすが生沢! これでプリンスは勝てる!」と思ったそうです。そして砂子さん自身も「レーサーであるから、黙ってみていたわけでは無い。このままポルシェを追いかけ、生沢に続いて抜き去ってやろう」とさえ思って、どんどん追い上げていったそうです。

スカイライン伝説誕生に隠された真実

ところがスプーンコーナーを立ち上がっていたとき、信じられない光景が起きたそうです。生沢さんは式場さんに、まるで道を譲るかのように抜かされたのです。「俺に言わせれば“抜かせてあげた”という印象だった。」

後に生沢さんは「実力の差は明らかであり、スポーツ精神にのっとってどいたのだ」と言っていたと砂子さんはいいます。ポルシェを追いかける様子をなかなか見せない生沢さんの走りを目にした時「生沢はレースを放棄した」と思った砂子さんが今度は、猛追していきます。

よく考えれば、生沢さんと式場さんは普段から、六本木などで遊んでいた仲間のような関係にあったことは砂子さんも知っていたそうです。でもレースでは別だろうと考えた砂子さんは先行する生沢さんと式場さんを追います。

「ここでレースを放棄することなど、俺には納得できない。第一、性能差こそ大きいとは言え、この鈴鹿でスカイラインGTがポルシェ904に比べて、それほど遅いとも感じていなかった」と砂子さん。式場さんの最速ラップは2分48秒4であるのに対して、砂子さんは2分48秒9であり、二人の間に大きなタイム差などは無かったそうです。

さらに砂子さんの車の方が生沢さんの車より仕上がりが良く、速かったことも自信の裏付けでした。当然「これなら勝負できる!」と思った砂子さんはついに「そのままの体勢でゴールしろ!」というチームオーダーを無視します。

まずは2位の生沢さんに「どけ、どけ! お前が行かないなら俺が行く」と、ボディを左右に振って生沢さんに意思表示をしました。それでもなかなか先を譲ってくれないので、ついにダンロップブリッジのところまで来たとき「とにかく先に行かせてくれ!」と言う意思を表わすために、仕方なく生沢さんの後ろからマシンにぶつけて合図をしたそうです。

すると生沢さんは姿勢を乱し、そのすきに砂子さんは前に出て、ポルシェの追い上げを始めたのです。

だが、すでにレースが後半戦に入った12周目のことでしたから結局16周目、追い上げも適わず砂子さんはポルシェに次いで約10秒遅れの2位、そして砂子さんよりさらに約10秒遅れで生沢さんが3位でゴールしました。このレースでスカイライン伝説が誕生したと同時に、最後のこの一件で、砂子さんはずっと悪者扱いだったそうです。「でも卑怯なことはしてこなかった」と笑いながら話されていました。

結果としてはプリンス・スカイラインGTが2位から6位まで独占して、鈴鹿から一般道を走りながらの帰京途中では、各ディーラーで大歓迎を受けたという

それ以降、砂子さんは多くのレースに参戦していますし、「GT-R無敵の52勝伝説の立役者」の一人とも呼ばれるレジェンドでした。その生き方に共鳴した多くのファンがいたことも確かです。生前のイベントのサイン会でも長い列ができるほどでした。実は今年もクラッシックカーのイベントで砂子さんとお会いする約束をしていたのですが、なんとも残念です。3月の偲ぶ会にはうかがおうと思います。安らかにお休み下さい。

<写真提供・砂子義一>

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