江戸期 港湾防衛の象徴 国史跡「長崎台場」 英国船事件受け築造拡大、開港まで役割

四郎ケ島台場跡(市教委提供)

 江戸時代の長崎港防衛の様子を今に伝える国史跡「長崎台場跡 魚見岳台場跡 四郎ケ島台場跡」について、国の文化審議会は昨年、「女神台場跡」(長崎市戸町4丁目)の追加指定を答申した。江戸時代を通して長崎のまちを守った長崎警備や長崎台場の歴史を改めて振り返る。

 台場とは砲台を置いた場所で、砲台場の略語。「長崎台場」は、長崎港や港外の島々に築かれた台場の総称。来航する外国船から防衛する目的で1655年~幕末、段階的に築造され、記録では計23カ所あった。そのうち遺構が良い状態で残っている魚見岳台場跡、四郎ケ島台場跡、答申中の女神台場跡が、国史跡となる。

魚見岳台場跡の一部(市教委提供)
女神台場跡の御石蔵跡(市教委提供)

 鎖国体制が取られていく1630年代後半から、海外との窓口である長崎をどのように守るのかということが幕府の課題になった。一方、幕府の直轄地で町人のまちである長崎には、武士層が長崎奉行所に100人前後しかいなかったため、41年から近隣の福岡藩、佐賀藩が長崎警備を担う体制ができた。
 47年、ポルトガル船が来航すると対外緊張が高まり、55年、幕府の命を受けた平戸藩が最初の台場7カ所(古台場)を築いた。福岡藩と佐賀藩は毎年交代で警備を担当。南風に乗って外国船が来航しやすい4~9月に、800~900人ほどの武士らを派遣して警備に当たった。
 長崎を中心にした江戸時代の沿岸警備について研究している県立大地域創造学部の松尾晋一教授によると、この時代の警備の基本方針は、長崎港に入った外国船を江戸から指示が届くまで港外に出さないことだった。古台場については、後に西洋の近代砲術に習って造られたものよりも低い位置にあり、当時、外国船を港外に出さないという任務を遂行する上で、火器の使用はあまり想定していなかったことがうかがえる。
 その後しばらく対外緊張は穏やかになったが、寛政年間(1789~1801年)になると北方にロシア船が来航するなど再び危機意識が高まった。全国の沿岸に台場が造られるようになり、蝦夷地の警備は長崎をモデルにして津軽藩と盛岡藩が担った。
 一方、長崎では08年、オランダ国旗を掲げた英国船が入港し、長崎奉行に食料や水を要求、数日後に出港するというフェートン号事件が起きた。当時、警備を担当した佐賀藩は財政難で滞在費などが掛かるため、奉行所の許可を得て長崎から引き上げていた。責任を取った長崎奉行は自刃、佐賀藩主も処分を受けた。
 同事件を受け、長崎警備が大きく見直された。長崎港に船を入れないという方針転換の下、同年、港外に向かって「新台場」5カ所、12年には「増台場」4カ所が築かれた。その後も53年にロシア使節プチャーチンの艦隊が来航するなど緊張状態が続いたが、松尾教授は「外国の軍事力、技術力の把握に努め、それなりの対応を図った」と話す。

 同年、長崎港南西部に自領のあった佐賀藩は神ノ島、伊王島などに10カ所の台場を自力で築造。西洋の近代的な軍事技術を積極的に導入し、西洋式の大砲も備えた。四郎ケ島台場は、四郎ケ島と小島の海岸を埋め立ててつなげ、さらに神ノ島とも連結させるという一大工事だった。
 58年に長崎が開港すると、外国船を排除する目的がなくなり、66年には一部を除いて大砲や火薬が撤去。まもなく明治維新を迎え、長崎台場は役割を終えた。
 松尾教授は「二百数十年も港湾の警備を大名に負担させた例は長崎以外になく、徳川幕府の異国船との向き合い方を知る上でも注目している。特に、新台場、増台場は西欧の近代的な軍事力への日本側の対応の象徴で、軍事や土木といった技術力の高度な発展を知る上でも重要な遺跡」と話す。

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