のら猫中国福州をゆく〜琉球王国の交易をたどって〜(中)

 

中国で人気観光地の福州・三坊七巷で

 私たちの旅の目的は、琉球王国の交易ルートをたどって、福州にあるという外交拠点「琉球館」と「琉球墓」にたどり着くこと。

 閩人(福州人)の血を引くRにとっては、文字通り自分のルーツを探る旅。

 そして他のメンバーにとっては、友人Rに便乗した冒険の旅である。

 さあ、「琉球閩人漫遊記」のはじまりだ。

  早朝、最初の目的地「琉球館」へ出発。

 私たち一行は、大通りを避けて、時が止まったような小路を進む。

 小路に入った途端、私の目はカメラと化す。

 韓国映画『パラサイト 半地下の家族』で、作品・監督・脚本・国際長編映画賞の4部門で米アカデミー賞を受賞した話題のポン・ジュノ監督に「この先20年間の映画界を牽引する監督の一人」と言わしめた、 新鋭ビー・ガン監督『凱里ブルース』(4月18日から日本公開)のワンシークエンスショットに向けられたカメラさながら、スルスルと奥へと進んでゆく。

  住民とすれ違うたびに「どこから来たの?」と聞かれる。   

 「リューチュー(琉球)」と声をそろえて返すと彼らの顔がほころぶ。

 福州と琉球の交易を覚えているよ、と言わんばかりに。

 

やがて開発され消えゆくだろう古い町並みの小路

 

 それにしても、なかなか「琉球館」にたどり着かない。

 のら猫が誘う小径でそれ風な建物を見つけては空振り。  

 道に迷ったかと思い始めた時、再開発が進む住宅地の隙間から白い壁が姿を現した。

 看板に「柔遠駅」とある。それが琉球館の中国での呼び名だった。

 

 宝の在り処を見つけたグーニーズの少年たちじゃないが、興奮気味に駆けつけると、古いカンフー映画に出てきそうな重厚な扉があった。  

 そこへおじさんが現れ、足早にサササっと中へ入ってバタンと扉を閉めた。

 急いで追って扉を叩くと、中から「休館日!」と返される。

 「ネットで調べたら日曜休館とあったから、月曜に来たのに……」 

 押し問答を続ける私たちの前に、トレンチコートの襟を立てた気の強そうな女性が現れ「帰れ!」と我々を追い返す。私たちは扉の前で「リューチュー、リューチュー!」と繰り返す。日程的に今日しかチャンスはないのだ。

 

 やがて、公安(警察)まで駆けつける騒ぎになった。

 「ほら、怪しい者ではない」とRは沖縄から持参した黄色いウチカビ(先祖供養の冥銭)と平御香(ひらおこう)を差し出す。

 それを一瞥したイケメン公安の口角が緩んだのを私は見逃さなかった。 

 「そうだ、この公安を味方にしよう」と思い立ち、Rを押し出しながら大芝居を打ち始めた。

 「彼の祖先は、はるか昔に琉球からこの福州まで命がけでやってきた閩人三十六姓です。どうかこの中に入れてください!」

 イカサマの中国語で連呼したら「英語で答えろ!」と英語で怒鳴られた。「はうぁ?」と高ぶる気持ちを鎮め、深呼吸してじっと公安を見詰め返す。

 その時、東風が吹いた。先ほどのトレンチコートの女性が手招きしている。

 「謝謝!」とパトカーに乗り込むイケメン公安を見送り、琉球館の扉の中へ。

  15世紀後半以降、外交の拠点だった琉球館。

 ここは、琉球からの朝貢使節、商人、留学生らが迎えられた宿泊施設でもあった。

 琉球処分の後は、日本の琉球併合に反対して清に脱出した旧臣たちの拠点にもなったという。そして、あの文化大革命の影響も受けていたであろう。

 琉球館は表舞台から消えたも同然だった。

 1992年に再建された琉球館には、歴史的資料が展示されている。

 福州から琉球へ運んでいったもの(薬剤、鼈甲、三線、石敢当、茶など)や琉球から福州へ持ち帰ったもの(硫黄、刀石、昆布など)。琉球へ移住したあの閩人三十六姓の一覧や墓石などもあった。

  私たちは資料本を小脇に抱え、展示と照合しては驚いたり唸ったりしていた。

 あまりにも熱心だったからか、先ほどのトレンチコートの女性もスマホの翻訳機能を駆使して説明してくれた。帰り際には、「琉球墓」への地図まで描いてくれた。

 

たくさんのドラマがあった福州琉球館

 

 「変わってゆく街並みから、変わらない琉球の痕跡を探す我々」とつぶやきながら歩くR。

 やがて、榕樹の垂れ下がる気根の隙間から小さな橋が見えてきた。

 橋のたもとに着くと、欄干に「万寿橋」と刻まれていた。

 かつて、琉球の朝貢使節は小舟で閩江の支流をのぼり「万寿橋」で積み荷を降ろして琉球館に向かったという。

 琉球からやってきたRの先祖たちの旅はここから始まったのか。

  橋の近くに廟があった。「媽祖廟じゃないかしら」と親友の鳥ちゃんがつぶやく。

 媽祖は航海の守護神なので、万寿橋の近くにあってしかるべきだと思ったのだ。

 廟の人らしきおじさんがいたが、南京錠の鍵が見つからず中に入れない。鍵の束をすべて試したが、どれも合致しなかった。

  「これじゃない?」と鳥ちゃんが偶然に鍵を発見。扉が開いて歓声が上がる。

 すると、おじさんが猿の真似をして本尊を指差した。

 

 「斉天大聖(せいてんたいせい)」 

 ここは、斉天大聖すなわち孫悟空を祀る廟だった。

 孫悟空に出会うべくして扉が開いたのか。

 この先には、どんな扉が待ち受けているのだろう。

 

閩江支流にかかる万寿橋と孫悟空を祀る廟

 

 次の目的地「琉球墓」に向かう。日没までにはたどり着きたい。

 琉球館のトレンチコートの女性が描いてくれた地図を頼りにタクシーを飛ばす。

 閩江の解放大橋を渡り福州師範大学を越え、住宅街の坂の中腹にその墓地はあった。

 しかし、ここでも門の扉は固く閉ざされていた。

  寂寞感漂う壁に沿って歩くと、植え込みの中に崩れた墓石があった。

 きっと文革の時に壊されたのだろう。

 坂を登ると、そこから墓地の内部が見渡せた。大きな榕樹に包まれた亀甲墓がいくつか見える。こんなに近くまで来たのに中へ入れないなんて!

  足元に、黒く焦げた土。線香の焼き跡を見つけた。

 「ここから、通そうか」

 鳥ちゃんが静かにそうつぶやくと、まるで秘儀でもするように、沖縄の平御香を割ってみんなに渡した。

  すると突然「どうしました?」と年配の女性が日本語で話しかけてきた。

 日本で勤務した経験がある元新聞記者で、名前は永和さん。

 事情を話すと、墓守の人を探してくれるという。福州の人は本当に優しい。

  40分くらいたっただろうか。墓守の人が現れ、扉を開けてくれた。

 墓地はさっき上から覗いたよりもほっこりと静穏な空間だった。

 まるで、大きな母体の中にいるような安心感に包まれる。

  墓守の方は、林さん。

 「あれ、どこかで見たことがある」と思いきや、Rの持ってきた本の中にそれはあった。この墓地の墓守の写真だった。

 Rが大きな目をでんぐり返しながら、そのページを差し出す。

 「もしや、あなたのお父様?」と私が尋ねると「そうです。父は数年前に亡くなりましたがね」と穏やかな表情で答えた。

   ロウソクをともし、線香をあげる。

 ウチカビ(冥銭)も特別に許可をいただいて、みんなで燃やした。

 「お金、あの世に届くかなあ」と鳥ちゃん。

 その傍らで、燃えるウチカビを前に泣き崩れてしまったR。

 閩人三十六姓ゆかりの琉球墓を前に、ウチカビの煙もRの涙も榕樹の中に包まれて消えてゆく。

 

探しあてた福州の琉球墓

 

 沖縄では、線香がたかれているうちは、あの世とおしゃべりできるという。

 私たちはたくさんおしゃべりをし、よなは徹さんの『唐船ドーイ』をBGMで流してカチャーシーまで踊り出す。

 そんな私たちを見守る林さんの瞳は、翡翠の玉(ぎょく)のように深い色を宿していた。中国人の墓でもない琉球人たちの墓を守り継いできた、深い慈愛の眼差しだった。

  ふと、香炉を見ると線香が消えそうになっている。時間だ。

 林さんと永和さんに深々とお辞儀をして琉球墓を後にした。

 

閩江ナイトクルーズ

 

 夜は、閩江クルーズと洒落てみる。

 Rの先祖たちが琉球から海を渡りはるばるたどり着いた福州。

 沿岸はいつも霞んでいて、近づくのが危険だったという。

 五虎と呼ばれる岩を目印に、この閩江へ入ってくるのだ。

 閩江の河の流れは思った以上に強く速い。それをクルーズで体感できた。

  琉球からの進貢船が艀に荷を積みかえた万寿大橋あたりには、現在立派な「解放大橋」がかかっている。

 もし先人たちがこの美しくライトアップされた閩江の景色を眺めたらどんな感じがするだろう。

 私は風に吹かれながら、はるか昔に朝貢使節としてやってきた琉球人を思った。(女優・洞口依子)

 つづく

© 一般社団法人共同通信社