【くまもと五輪物語】松野明美(上)「ソウル」陸上女子1万メートル出場 「国内敵なし」マラソンへ

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ソウル五輪陸上競技女子1万メートルに出場し、予選22位の松野明美=1988年9月26日
ソウル五輪出場の記念品を手にする松野明美さん=熊本市北区

 競技場に響く歓声、肌に感じる風、隣の選手の息遣い。松野明美(51)は、1988年のソウル五輪を鮮明に覚えている。女子1万メートル予選。トラックを駆けながら、今までにない感覚に包まれた。

 「日本代表のプレッシャーとか、記録への挑戦とか、頭の中にあったいろんな感情が飛んで、ここで死んでもいいと思った。幸せとは違う気がする。言葉では表せない、不思議な時間だった」

 148センチ、30キロあまりのひときわ小さな体で外国勢に食らいついた。決勝進出こそ逃したが、32分19秒57のタイムは当時の日本新記録。ただ記録を出したうれしさよりも、耳に入った音、目に映った光景が強く残っている。

 「声援が言葉ではなく音楽のように聞こえた。スタンドで小さく揺れる日の丸が目に入るたびに鳥肌が立った。レース中にタイムが気にならなかったのは、あれが最初で最後だったかもしれない」

 小学5年のころ、地元の陸上大会で優勝。両親の喜ぶ顔に自信を付け、引っ込み思案から明るい少女に生まれ変わった。中学ではバスケットボール部に所属しながら、帰宅後は母のミニバイクの先導で約8キロランニング。鹿本高陸上部で本格的に競技を始めた。

 「中学、高校時代から人より3倍、4倍努力することを自分に課していた。おかげで成長できたけど、その陰には周りの支えがあった。走るのは自分。でも自分一人では強くなれなかった」

 高校卒業後、実業団のニコニコドーへ進むと才能は開花。1年目の全日本実業団女子対抗駅伝で12人抜きの鮮烈デビューを飾り、翌88年は日本選手権で優勝してソウル五輪に出場。その後も自身の日本記録を塗り替えるなど、順風満帆な競技生活を送った。

 「周囲から国内では敵なしと言われ、自分でもそう思っていた。苦しい練習も結果を出すことで乗り越えられた」

 ただ、世界選手権などの国際大会では外国勢に勝てなかった。五輪でも感じた世界との差。それを埋められるのはトラックではなくマラソンだと考えていた。

 「以前からマラソンへの憧れはあったので転向は自然な流れ。長い距離に対応できるよう体脂肪を増やし、マラソンでも国内トップを狙えると思えるくらい練習を積んだ」

 その自信は、すぐに結果に現れた。バルセロナ五輪(92年)の代表選考会を兼ねた大阪国際マラソン(同)。種目転向から数カ月で迎えたマラソンデビュー戦で、当時の日本記録を1分近く上回る2時間27分2秒をマークした。

 「小学校の卒業文集に書いた『マラソンで五輪出場』の夢が、ようやくかなうと思った。早く代表に決めてもらって、安心して練習したい。そう思いながら過ごしていた」

 信じて疑わなかった2度目の五輪。だが松野の思いとは裏腹に、代表選考は混沌[こんとん]としていた。(丁将広)

 ◇まつの・あけみ 1968年4月27日、旧植木町(現熊本市北区植木町)生まれ。鹿本高から実業団のニコニコドーに進み、日本選手権の1万メートルで2度優勝するなど活躍。88年のソウル五輪では当時の日本記録を更新した。91年にマラソンに転向。翌年のバルセロナ五輪出場を目指したが落選し、95年に現役引退した。2010年に熊本市議となり、15年には県議選にくら替えし、トップ当選。同町で、夫と2人の息子と4人暮らし。