いま、天守が熱い! 本能寺の変の半年前、織田信長が日本で初めて安土城で行なったこととは?

『ワイド&パノラマ 日本の城 天守・櫓・門と御殿―鳥瞰・断面イラスト、 CG、 精密模型でよみがえる近世城郭―』(三浦正幸・監修)が注目されている。

革新的で新しいものが好きなイメージの強い織田信長だが、 城のシンボルともいえる「天守」が本格的に始まったのも、 信長の安土城からといわれている。 それまでの城にも高い建物はあったが、 城内の最も高い場所に高い建物を築いて居住可能にし、 「てんしゅ(天主)」と呼ばせたのは、 信長の安土城が最初になる。 しかも信長はこの安土城において、 日本で初めて有料の城見学ツアーを行っていたのだ。 本能寺の変から遡ること半年前、 天正10年(1582)の元旦に、 信長は新年の挨拶にきた家臣たちに城内の拝観を許している。 そして最後に御礼銭を受け取ると、 それを後ろへ投げたという記録が、 信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』に記されている。

信長の安土城は、 天守も含めて本能寺の変後に焼失し、 現在は石垣などを残すのみとなっている。 だが、 江戸時代に建てられた天守でさえ、 残っている城はわずか12しかない。 「現存12天守」という言葉を聞いたことのある人も多いだろう。 姫路城(兵庫県)、 彦根城(滋賀県)、 松本城(長野県)、 犬山城(岐阜県)、 松江城(島根県)の5城が国宝に、 弘前城(青森県)、 丸岡城(福井県)、 備中松山城(岡山県)、 丸亀城(香川県)、 松山城(愛媛県)、 宇和島城(愛媛県)、 高知城(高知県)の7城が重要文化財に指定されている。 いずれも大変貴重なものである。

では、 「現存12天守」以外の今ある城の天守は、 いつ建てられたものなのか? じつは時期も再建方法も様々だ。 明治の廃城令後から昭和初期までは、 観光の目玉として、 位置や規模や外観などが史実とは異なる「模擬天守」が再建されていた。 太平洋戦争で多くの城が焼失した後は、 戦後復興のシンボルとして外観を復元した「復元天守」が再建された。 そして平成に入って以降は、 発掘調査と史料を元に木造で忠実に「復元天守」が建てられている。 もちろん、 どの天守も長く地元で愛されてきたことに変わりはないが、 少し誤解を与えてしまっているものもある。

当然、 かつては天守が存在したが再建されていない城も多い。 本丸跡とされる広場に、 いったいどのような天守が建っていたのか、 人々の興味は尽きない。 それはいつの時代においても同じなようで、 信長の安土城は江戸時代から復元の対象になっていて、 推定案などの史料も残っている。

そんな人々の素朴な疑問に応えるのが、 本書『ワイド&パノラマ 日本の城 天守・櫓・門と御殿』だ。 信長の安土城のほかにも、 豊臣・徳川両時代の大坂城や、 寛永期の二条城や江戸城など17基の天守をはじめ、 櫓・門・御殿の復元CG・イラストを、 折込A3の大きなサイズで24城掲載している。 いずれのCG・イラストも、 学術調査と史料に基づいて時間をかけて復元された貴重なもので、 在りし日の姿を楽しむことができる各城の詳しい解説のほか、 主要天守年表やマップなどの資料も充実。 日本100名城も多く掲載されていて、 100名城めぐりを楽しんでいる人には、 ぜひ知ってほしい情報も満載。 あなたの城めぐりをさらに充実させる一冊だ。

江戸後期の広島城の本丸復元イラスト(復元=三浦正幸 作画=野上隼夫)。 本丸上段に御殿、 下段に馬場があり、 御殿の立派な様子がよくわかる。 御殿の屋根の色が違うのは、 もともと杮葺(こけらぶき)であったものが財政難によって瓦葺(かわらぶき)に改められ、 その頃の様子を描いていることによる。

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