逃げずに闘い続けた樺美智子 国会の暴力から「革命前夜」に 日米安保60年(3)

By 江刺昭子

米大統領秘書のハガチーが乗った車を取り囲むデモ隊=1960年6月10日、羽田空港

 昨年、香港で逃亡犯条例の改正案に反対して市民の激しい抗議デモが起こり、持続的な運動になった。その最前線に若者たちがいた。それに比べて「日本の若者は政治に関心が薄い」と嘆く声も上がった。

 特定秘密保護法が制定されても、自衛隊が海外に派遣されても、若者の多くはスマホに目を落したままのように見える。60年前、日米安保条約に反対して立ち上がった若者たちとどこが違うのか。

 60年安保闘争のときの学生たちを当時のメディアは、こぞって「はねあがり」「赤いカミナリ族」などと批判した。カミナリ族は集団でバイクなどを駆る若者たち。今で言う「暴走族」で、そこに共産主義を意味する「赤」という形容詞を付している。

 しかし、体を張って行動した学生たちや、それに続いた民衆の姿に、革命の未来を見た人もいた。それをあながち幻想と呼べないほど運動が盛り上がっていったのは、1960年5月20日以降である。

 反対運動は国民運動ともいうべき様相を呈した。デモ隊は雪だるま式にふくれあがった。この年、早大に入学したばかりの一般学生のわたしが、手作りの旗を持って、サークルの仲間たちとはじめて街頭デモに参加したのも、5月20日だった。

 画期をもたらしたのは何か。

 5月19日深夜から20日未明にかけて、衆議院で新安保条約、新行政協定(地位協定)、関連法案の3案が強行採決されたのだ。警官隊500人を入れ、秘書も使って、反対する野党議員をゴボウ抜きにした。国権の最高機関が暴力で支配された。もちろん討論は行われていない。

 与党が民主主義を踏みにじり、議会政治を崩壊させたことで、安保闘争の風景は一変する。政府攻撃の世論は日に日に高まり、衆議院の解散と岸信介内閣の退陣を求める戦後最大の大衆運動に発展した。

 社会党と総評を中心とする安保改定阻止国民会議(国民会議)は、連日デモを組織し、今まで動かなかった市民団体、女性団体、学術団体、全国の大学の教授団も相次いで声明を出し、組織に属していない主婦や商店主も街頭に出た。

 30歳の画家、小林トミが一人ではじめた「声なき声の会」の旗のもとに、たちまち300人もの行列ができた。文学者や芸術家、芸能人やプロ野球選手も岸内閣を責める発言をしている。

 樺(かんば)美智子はその春、東大4年に進み、文学部学友会の副委員長の任期が終わる。これからは卒論に集中すると周りにも宣言し、力を入れはじめた矢先、皮肉にも反対運動が日ごとに盛り上がっていった。

 樺が所属する共産主義者同盟(ブント)は全学連主流派を指導し、国民会議の請願デモを「お焼香デモ」と批判した。穏健なデモを揶揄した言い方である。主流派は5月26日に国会に、6月3日には首相官邸への突入を試み、多くの検挙者を出す。

 そんな過激な闘争から足を洗って、公務員試験や司法試験、就職活動、大学院進学の準備に向かう学友もいたが、樺は逃げなかった。睡眠時間を削って卒論の準備を進めながらも、デモに出かけた。

1959年、教育実習先の笹塚中学校の運動会での樺美智子。生徒の1人が写した

 亡くなるまでの1カ月、さまざまな顔を友人たちに目撃されている。ゼミのレポート作成のため、先輩に熱心に質問する後ろ姿を写真に撮られている。渋谷の横断歩道ですれ違った学友もいる。樺は母親と腕を組み「温和で、嬉々とした」笑顔だったという。

 デモに行く地下鉄でマルクス・エンゲレスの共著『ドイツ・イデオロギー』を膝に広げて居眠りをしていても、いざ現場に立つと勇敢な闘士になった。首相官邸突入をひるんだら、彼女に腕をむんずと掴まれスクラムを組まれたと、回想する男子学生もいる。どんな場面でも、いい加減にとか、適当に、ということができない人だった。

樺美智子の日本経済史のノート。左ページをメモ用にあけている

 6月10日、羽田でハガチー事件が起きた。アイゼンハワー米大統領の来日が予定されていて、その下見のために秘書のハガチーが羽田に着く。しかし、ハガチーを乗せた車はデモ隊に取り囲まれ、ヘリコプターで脱出する騒ぎになった。取り囲んだのは全学連の主流派ではなく、共産党系の反主流派と労働者の集団だった。

 それが主流派のブントの焦りをよぶ。これでは全学連の主導権を反主流派に奪われてしまう。これまで中心を担ってきた指導者たちの多くが逮捕され、不在の中で、慌てて「6月15日国会突入」という方針をうちだした。

 国会構内では「鬼の4機」と呼ばれた屈強の第4機動隊が重装備で待ち構えていた。一方、デモ隊はと言えば、のちの全共闘運動のときと違い、ボール紙で作ったプラカードや布の旗だけ。足元はズックや下駄履きもいる。女子はスカート姿がほとんどだった。

 武器はみんなと固く組んだスクラムだけ。正面からぶつかれば、誰かが死ぬかもしれない。指導部には「死者が出るのではないか」と、不幸な予感を持つ者もいた。そして、その予感は的中してしまう。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

日米安保60年(1)

樺美智子とは何者だったのか 日米安保60年(2)

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