樺美智子が投げかけた問い 「可憐な少女」拒否する実像 日米安保60年(6)

By 江刺昭子

1960年6月24日の「国民葬」。葬列は日比谷公会堂から国会へ向かった

 昨春、東大入学式での上野千鶴子さんの祝辞が話題になった。東大入学者の女性比率が2割の壁を越えていないことや、東大男子と他大学の女子だけで構成されるサークルがあることなどを列挙して、性差別が温存されていると指摘した。

 樺(かんば)美智子が東大に入学した1957年はどうだったのか。入学者の女性比率はわずか3・1%。将来を期待されていいはずの彼女たちについて、東大文学部学生掛の尾崎盛光(のちに文学部事務長)が『週刊東京大学新聞』(58年9月17日)に「東大花嫁学校論」を寄稿している。趣旨を要約すれば次のようである。

 これからは国際社会で活躍する外交官、学者、音楽家などの夫人の需要が増える。こうした大型ホステス向きの夫人を養成できる花嫁学校はどこにもない。東大女子学生諸君はすべからく「わたしは日本最高の花嫁学校にいる」という誇りを持つべきだ―。

 こんな女性観がまかり通っていた時代、この根深い性差別を、樺は社会主義やマルクス主義に拠(よ)って解決しようとした。そして前衛党を名乗る政治集団、共産主義者同盟(ブント)に参加した。だが、ほとんど結成メンバーのような立場でありながら、与えられた役割はガリ切りや同盟費の集金といった雑務ばかりだった。

 ガリ切りとは「ロウ紙」と呼ばれる原紙に、鉄筆でガリガリと文字を書き込む作業で、その部分だけにインクが入って多くの紙に印刷できる。ビラ作りなどには不可欠の、しかし、恐ろしく根気のいる作業だ。樺はいつもガリ切りをしていたと、周囲は証言する。

 支配するのは男、手足になって働くのは女という構図のなかで、組織に忠実であろうとして消耗した。性別役割分業を批判してウーマンリブが声を挙げるのは10年後である。リブには安保世代も少なからずいる。彼女の願いが受け継がれたのだと思いたい。

 安保闘争を主導した国民会議も、報じるメディアも、全学連の行動に否定的だったが、樺の死によって評価が一変する。死の3日後の6月18日、東大で「樺美智子さんの死を悼む合同慰霊祭」が全学を挙げて行われ、教職員と学生約6千人が本郷から国会まで喪章を付けてデモ行進した。23日と24日には日比谷公会堂で全学連葬と国民会議主催の「国民葬」が続けて行われた。

 国民会議が盛大なセレモニーを主催したのは、全学連に世間の同情が集まるなかでの政治利用に見える。式後、長い隊列が彼女の死の現場となった国会の南通用門前まで続き、群衆が沿道で手を合わせて見送った。その人波は、約1年前の59年4月に行われた皇太子(現上皇)と正田美智子(現上皇后)の結婚パレードに匹敵し、樺は悲劇のヒロインに祭りあげられる。

 この過程で樺は、ラジカルな学生運動家ではなく、デモに巻きこまれて犠牲になった真面目な一般学生というイメージに仕立てあげられる。被害者として、美化されていく。

 葬儀をプロデュースした脚本家松山善三の「この暴挙許すまじ 6月19日午前0時 歴史の瞬間に立って」(『週刊朝日』7月3日)を読むと、それがよくわかる。

 「セーターに身をつつんだ可憐な少女のつぶらなひとみが、はっきりと物語っている。一ファシストに牛耳られたおろかな不安な日々の政治下になかったならば、彼女の未来には、恋や結婚や育児という、輝かしい、そして美しい人間の生活があり得たはずだ」

 22歳の女性を「少女」とみなすのはおかしい。彼女は成熟した大人であり、明確な政治的意志をもってデモに参加し、斃(たお)れたのだ。女子学生の未来に、恋や結婚や育児を置き、それが「輝かしい」とか「美しい人間の生活」と形容するのも、枠に閉じこめるものだ。当時、大学1年だったわたしは、激しいいらだちを覚えた。

作家・秋田雨雀の色紙。「永遠の処女は平和のためにたたかいて今ぞ帰りぬ盾にのせられ」

 松山善三や東大花嫁学校論の尾崎だけではない。近年でも「清楚な姿の写真を見るにつけ、彼女は進んで学生運動に身を投じるタイプには見えない」と書く男性ジャーナリストがいる。「可憐」や「清楚」を求められても、樺なら断固拒否するだろう。

 樺の死は政治に激動をもたらした。

 6月16日、政府はアイゼンハワー米大統領の訪日を断念する。18日は空前絶後の反政府デモとなった。「岸内閣打倒、国会解散、安保阻止、不当弾圧抗議」を掲げた国民大会に33万人が参加。4万人が首相官邸前に徹夜で坐りこんだ。官邸突入という情報もあって、首相の岸信介は蒼白になって震えだし、自衛隊出動を要請したと伝えられている。

1960年6月18日に国立劇場建設予定地で開かれた国民会議デモ隊の大集会。今では信じられないほどの人並みだ。左奥に国会議事堂が見える

 防衛庁長官の赤城宗徳が要請を断ってことなきを得たが、自衛隊が市民に銃を向ける寸前までいったのだ。全学連主流派はこの大群衆を前に方針を出せなかった。衆院での強行採決から1カ月後、6月19日午前零時、新安保条約は自然承認された。

 このあとも国民会議の反対行動は続き、22日には全国で111単産、540万人が参加した。岸は23日、ついに辞意表明する。

 高揚した国民運動の波は去って、中核を担ったブントも解体する。学生運動は四分五裂し、党派間の激しい争いも起きた。一方で安保闘争のエネルギーはのちの、ベ平連運動や反公害などの多様な市民運動に形を変えて引き継がれ、育っている。

 だが、日米安保条約は廃止も改正もされずに残り、軍事同盟が一貫して強化されてきたことも事実だ。安倍晋三首相は、この安保体制の下で憲法改正を狙う。3年前の6月15日には、共謀罪法案を参院法務委員会の採決抜きで、いきなり参院本会議に持ち込み、強行採決した。民主的な手続きを無視し、開かれた議論を拒むやり方は、祖父を想起させる。

樺美智子の遺稿集「人しれず微笑まん」

 オリンピック・パラリンピックの狂騒のなかで、あるいは、新しい感染症の恐怖や他国の脅威を利用して、戦争体制に突き進もうというもくろみを警戒しなくてはならない。

 安保条約は60年後の今も、わたしたちの日常を縛り、憲法の平和主義と衝突している。それなのに、沖縄をはじめとする基地の町以外で、樺美智子が命をかけて投げかけた問いを、わがこととして受け止める動きは少ない。それは樺の死後、その実像を受け止めず、美化してしまったことと、無関係ではないだろう。(敬称略、終わり、女性史研究者=江刺昭子)

 えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家、大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」など著書・編著書多数。『樺美智子、安保闘争にたおれた東大生』が河出文庫から6月刊行予定。

日米安保60年(1)

樺美智子とは何者だったのか 日米安保60年(2)

逃げずに闘い続けた樺美智子 日米安保60年(3)

樺美智子「運命の日」 日米安保60年(4)

樺美智子、死因の謎 日米安保60年(5)

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