2.26事件とはどのような事件だったのか?【昭和維新】

1936年(昭和11年)2月26日未明、降り積もった雪を踏みしめながら、約1400名の陸軍の青年将校らが東京市の街を駆け抜けた。

2.26事件(にいにいろくじけん)は動き出す。

しかし、事件の名は知っていても何が起こり、なぜ起きたのかを知る人は少ない。
2.26事件とは何だったのかを調べてみた。

背景

※叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵

まずは、時間を1929年10月24日(昭和4年)まで遡ろう。

ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として、世界的な規模で各国の経済にダメージを与えた「世界恐慌」が起きる。

それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、日本経済も危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた。

折悪く東北では凶作となり、農家では若い娘を売るという悲惨な状況となる。しかも、青森県では14歳の娘が5年契約450円で売られても、親の手元には150円しか入らなかった。

昭和8年には三陸大津波により農村が壊滅的な被害を受けた。他にも「満州事変」「国連脱退」「5.51事件」など未来に希望を持てるニュースがなかった時代。

しかし、当時の陸軍は国内を見ることはぜず、統制経済による高度国防国家への改造を計画。

一部の陸軍青年将校たちは「政府はなぜ国内の現状に対して何もしないのか!」と怒りを溜め込んでゆく。彼らの中には窮乏する農村の出身者もいたため、その思いはより強くなった。

君側の奸

※北一輝

北一輝(きたいっき/本名:北 輝次郎(きた てるじろう)/1883年(明治16年)4月3日 – 1937年(昭和12年)8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者である。

1919年(大正8年)、著書『日本改造法案大綱』にて言論の自由、私有財産の一定の制限、労働者の権利、天皇と国民が一体化した民主主義体制(国民の天皇)への移行の必要性などを述べている。

しかし、それを実行するには、天皇によって指導された国民によるクーデターが必要だとも述べた。

それに感化された青年将校たちは決意をする。

つまり、軍部に物を言えなくなった弱腰の政府や、財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗、大恐慌のダメージから立ち直れない状況を打破するためにクーデターを起こす、と。

その思想は「昭和維新」と呼ばれ、「昭和維新断行・尊皇討奸(そんのうとうかん)」をスローガンに武力をもって政府の要人を殺害、天皇と国民による新しい政治体制を目指した。尊皇討奸(そんのうとうかん)とは、天皇による政治を実現するためには私利私欲に走り 悪政をしている政治家どもを討たなければならない、ということである。

青年将校らにすれば、政治家は『君側の奸(くんそくのかん)』であり、排除しないとならない。君側の奸とは「天皇のそばで悪い政治をしているやつら」のことである。

クーデターにより、天皇に自分らの主張を聞き入れてもらい「今の日本は悪い政治家たちのせいで苦しんでいる人々が多くいるのです!どうか我々と共に、より良い日本にしましょう!」と伝えるのが目的だった。

決起

※蹶起直後の半蔵門

青年将校らは、襲撃先の抵抗を抑えるため、決起の前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。その中には、機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功する。

1936年2月26日未明、野中四郎陸軍大尉などを中心に、部隊はいくつかに分かれて事前の計画により決められた襲撃目標を目指す。同時多発襲撃を狙っていた。

内閣総理大臣・退役海軍大将の岡田啓介は警備の警官が抵抗をする間に隠れることができたので無事で済んだが、高橋是清 蔵相(たかはしこれきよ大蔵大臣)は、陸軍への予算削減政策により恨みを買うことになり、赤坂表町3丁目の高橋私邸を襲撃される。警備の警官は奮戦したが重傷を負い、高橋は拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。

他にも、四人の閣僚が殺害され、1人が重傷を負う。さらに部隊は警視庁、陸軍省及び参謀本部、有楽町の東京朝日新聞(のちの朝日新聞東京本社)なども襲撃し、日本の政治の中枢である永田町、霞ヶ関、赤坂、三宅坂の一帯を占領した。

寝室に赴いた侍従長の報告を聞いた天皇は、「とうとうやったか」「まったくわたしの不徳のいたすところだ」と言って、しばらくは呆然としていたという。

すでにクーデター発生の可能性は天皇にも報告されていたからである。

鎮圧

※帰順する下士官兵

クーデター部隊最大の誤算が起きた。

天皇自身がこのクーデターそのものを望んでいなかったのである。天皇は第一報を受けたときから「賊軍」という言葉を青年将校部隊に対して使用しており、激しい敵意をもっていたことがわかる。

さらに「朕(ちん/私)の軍隊が命令なく自由行動を起こしたことは反乱軍と認める、反乱軍である以上速やかに討伐すべきである」と述べ、軍と政府は青年将校らを反乱軍として、武力鎮圧することを決めた。

28日午後4時、戒厳司令部は武力鎮圧を表明し、準備を下命。 同時刻、皇居には皇族7人伏見宮博恭王朝融王秩父宮東久邇宮梨本宮竹田宮高松宮)が集まり、一致して天皇を支える方針を打ち出した。

29日朝早朝には反乱部隊に対して、投降を呼びかけるビラを飛行機から散布される。

下士官兵ニ告グ

一、今カラデモ遅クナイカラ原隊へ戻レ
二、抵抗スル者は全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテヲルゾ

二月二十九日 戒厳司令部

午前8時55分、ラジオで「兵に告ぐ」と題した勧告が放送され、

「勅命下る 軍旗に手向かふな(天皇が降伏するよう命じている。国家に手向かうな)」

と記されたアドバルーンもあげられた。

※兵に告ぐのラジオ放送

これにより、反乱部隊の下士官兵は午後2時までに原隊に帰り、クーデターを主導した青年将校らは自決する者や、法廷闘争を決意して逮捕される者などが現われ、残る将校らは午後5時に逮捕され、反乱はあっけない終末を迎えた。

影響

※二・二六事件慰霊碑(東京都渋谷区宇田川町1-1)

事件に関わった下士官兵は、多くが「反乱とは知らず、上官の命令に従っただけ」とされ、軍法会議においても無罪になった。

一方、逮捕された中心メンバーはほぼ全員が一審制、非公開、弁護人なしという特異な裁判にかけられ、次々に処刑されることになる。

事件の収拾後、岡田内閣は総辞職し、広田弘毅(ひろたこうき)が総理大臣に就任。

5月、広田内閣は思想犯保護観察法(昭和11年5月29日法律第29号)を成立させ全国に思想犯保護観察所を設置。

思想犯保護観察団体には仏教会なども加わっていた。徐々に言論の自由は統制され、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。

また、政治家に対しては

「軍に対して都合の悪いことをすると、軍人によるテロの標的にされる。しかし、軍にはそうしたテロを積極的に取り締まる意思がない」

という恐怖を植えつけた。つまり、軍の上層部は自らの手は汚さずに、政治家を粛清することが出来ると思わせたのだ。

最後に

皮肉にも「民主主義」を目指して起したクーデターが、後に軍部の権限を強める結果となってしまった。

長期的には太平洋戦争の原因のひとつとも言われる。

軍部に逆らえない風潮、軍国国家の形成に利用されたのが2.26事件の結果だった。

(文/gunny : 草の実堂編集部)(画像:wiki(C),public domain)

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