取立屋のヤクザと花形俳優、孤独なふたりの青年が出会いゆっくり心通わせる『ソン・ランの響き』

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

1980年代、その街はサイゴンと呼ばれていた

冒頭、寺社を訪れた青年がそっと手を合わせる。ただ心を澄ませたいと彼は願っている――僕にはそんな気がした。仏僧たちが奏でる調べに耳を傾ける横顔に、「ソン・ランを長い間手にしていない」という青年のモノローグが重なる。彼は内なる心の静謐を求めているに違いない。予感は確信に変わっていく。

映画『ソン・ランの響き』は、1980年代のサイゴンを舞台にした物語だ。ケータイが普及した今はホーチミンと呼ばれているベトナムの大都市である。「ソン・ラン」とは、ベトナムに古くから伝わる打楽器。室内楽や大衆演劇で奏でられる楽曲の冒頭と結びで用いられ、演者たちのリズムの基礎となる。劇中で演じられる大衆歌舞劇「カイルオン」の本質とされているという。ソン・ランには、“ふたりの男”という意味もあるらしい。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

心の静謐を求めてサイゴンを走る孤独な取立屋ユン

彼の名はユン、借金の取り立てを稼業とするヤクザだ。サイゴンの狭い路地をオートバイで走り集金する。返済の遅れには必ず「明日まで」との約束を取り付ける。逆らえばシャドーボクシングで鍛えたパンチが飛ぶ、強引な取り立てで“雷のユン兄貴”と呼ばれている。集金を終えた彼を迎えるふたりの若者は「兄貴!」と目を輝かせる。いつもクールな彼は憧れの存在なのだ。事務所では、女主人のズーが高金利で金を貸し付けている。回収した金を渡しそそくさと帰ろうとするユンに、ズーは返済が遅れる店を回るようにと指示を出す。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

借金の形に電気製品を取り上げたユンは、ゲームソフトに目をつける。「お代は要らない」という店主の申し出に、「ゲーム代と借金は別だ」と律儀に金を払う。小ぎれいに整えられたアパートに帰ると、夜がふけるまで手に入れたゲームに興じる。何もすることがないときは屋上で時間をやり過している。

監督は、サイゴンに生まれた後、アメリカで俳優、歌手、ダンサーなどの経験を持つレオン・レ。初長編作となる本作で、黙々とルーティンをこなすユンの1日を描くことで、心の疼きを抱えて生きる青年の今を浮き彫りにしていく。

がむしゃらで生真面目な舞台俳優リン・フン

黙々と仕事を続けるユンは、返済が滞っているカイルオン劇団を訪れる。再起をかけて公演の準備が進む会場で、見せしめとして楽屋の衣装にガソリンをぶっかけて燃やそうとする。そこに「横暴は許さない」と事情を知らない花形俳優リン・フンが割って入る。「払えない」という団長を尻目に、リン・フンは腕時計とブレスレットを差し出し、「明日の公演が終わったら払う」と約束する。律儀な申し出に、借金の形を無視したユンは無言で劇場を後にする。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

初日を控えたリン・フンは、一心不乱にリハーサルに臨む。その演技を見つめていた長老は、「テクニックは抜群だが、この劇を演じるためには経験が必要だ」と諭す。がむしゃらにセリフをまくし立てる生真面目なリン・フンの演技には「何か」が足りないのだ。

カイルオンとは、ベトナム版オペラとも呼ぶべき大衆演劇。20世紀初頭にベトナム南部で始まり、フランス統治下の1930年代から独立後の1960年代にかけて中流階級に支持された。そんなソン・ランのリズムを基調にした弦楽器ダン・グエット(弾月)、エレキギターなどの伴奏に乗せて、俳優たちが歌い踊る。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

劇中劇カイルオンを通して、不器用なふたりがすれ違う

返済が滞ったタイの家を訪れたユンは、ふたりの少女に迎えられる。父は留守だという次女が応じ、よくしつけられた長女がお茶とマンゴーを振る舞う。ナイフを取り出したユンは一切れの皮をむく。そのマンゴーを次女が笑顔で頬ばり、ふた切れ目は長女の手に渡される。だが、タイが帰宅し「金はない」と告げられるとユンは態度を一変させ、泣きじゃくる姉妹の前で夫婦を殴りつける。

夜、カイルオン公演が開幕する。会場にはチケットを手にしたユンの姿もある。ここで監督は、古典劇「ミー・チャウとチョン・ツゥイー」を丁寧に描き出す。要約すると、百戦錬磨の勇者がいる。王子である彼は敵国の姫と戦略結婚させられる。ふたりは深く愛し合う。だが、宿命は彼を戦場へと向かわせる。まさかの展開に狼狽した父は娘に刃を振るう。悲しみにくれた彼は妻の亡骸を抱いたままで断崖へと進み身を投じる――という筋書きだ。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

この悲恋劇の主役、王子ミー・チャウを演じるために足りないこととは何なのか。ただがむしゃらに舞台を続けるリン・フンと、何かを噛みしめるように舞台を見つめるユン。

翌日、事務所に顔を出したユンは、約束通り借金を返しに来たリン・フンと出くわす。ズーは金を受け取らずに帰った理由を尋ねるが、深くは詮索しない。その後、ユンはタイの妻がふたりの娘を道連れに自殺を図ったことを知らされる。やり場のない呵責がユンの心を締めつける。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

何かが足りない そのことだけは分かっている

ある日、リン・フンは町の食堂で客に絡まれ、殴られて昏倒してしまった彼をユンが助ける。負けん気は強いが華奢なリン・フンの「意外な男気」に心を動かされたのだ。アパートで目覚めたリンは急いで出ていくが、鍵をなくしたことに気づいて戻ってくる。だが、どこを探しても見つからない。「泊まっていけ」と声をかけたユンは、ひとりゲームを始める。画面を見ていたリン・フンがゲームに注文をつけ、やがてふたりはゲームに夢中になる。その姿はまるで少年のようだ。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

停電でゲームが中断されると、屋台で腹ごしらえをする。差し出された麺を即座にすすり始めるリン・フンと、薬味を細かくチェックしているユン。やがて、どちらが話し始めるではなく、どちらが尋ねたわけでもなく、自分のことを語り始める。屋台からアパートの屋上、再びユンの部屋へ。ふたりの心が響き合い、確かなリズムを刻み始めたとき、特別な想いがこみ上げてくる。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68

何かが足りない。そのことだけは分かっている。でも、それは一体どんなことなのか。ユンとリン・フン、それぞれの抱える今を丁寧に描いたレオン・レ監督は、夜のサイゴンでとりとめなく交わされるふたりの会話をブルートーンで繊細に積み重ねた先に、劇的な色彩で魅せる本作の核心となるマジカルなモーメントを用意している。

インターネットも携帯電話もない1980年代のサイゴンを舞台に、切なさを加速させる『ソン・ランの響き』は、心に疼きを抱えた現代人にこそ観てほしい作品だ。

『ソン・ランの響き』©2019 STUDIO68『ソン・ランの響き』は2020年2月22日(土)より新宿 K’s cinemaほか全国順次ロードショー

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