琉球が日本になった「琉球処分」 反対し亡命した王国首脳、沖縄で天皇誕生日祝う行事に参画 動き分かる資料発見

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県立博物館・美術館に寄贈される「沖縄県奉祝天長節実記」。浦添親方と富川親方が、琉球式に御座楽、路次楽、唐歌で祝うことを提案したことが書かれている

 明治政府が琉球王国を廃して沖縄県にした「琉球処分」が断行された1879(明治12)年、県が初めて行った「天長節(天皇誕生日)」の祝賀行事の記録「沖縄県奉祝天長節実記」が見つかった。運営に関わった人の名簿には、明治政府に抵抗したとして行事の2カ月前に逮捕された琉球王府最高幹部の三司官の名前がある。神奈川大学の後田多敦准教授(日本近現代史、琉球史)は「天皇制国家に琉球を取り込もうとする明治政府と、弾圧を受け表向きは従わざるを得ないと判断した琉球の双方の動きが見える資料」と指摘している。(首里城取材班・城間有)

 まさひろ酒造(糸満市)の比嘉昌晋会長が1955年に県外の骨董(こっとう)店で入手したもので、近く県立博物館・美術館(田名真之館長)に寄贈する。県書記官の原忠順らが「沖縄県」の印字がある罫紙(けいし)21枚に毛筆で書いている。

 名簿には県外から来た役人の他、県の顧問となっていた旧三司官の浦添親方(浦添朝昭)と富川親方(富川盛奎(せいけい))らの名前がある。浦添親方は行事2カ月前の9月に、抗日運動を主導したとして警察に逮捕されていた。富川親方は浦添親方を救出するために明治政府に従う姿勢を取ったものの、82年に清国に亡命して琉球救済を訴えた人物。

 「実記」には「本県創置以後初めて迎える天長節」をどう祝うかを浦添親方と富川親方に相談したところ「琉球の祝い方にのっとり御座楽(うざがく)と路次楽(ろじがく)、唐歌などを演奏してはどうか」と言ったと書かれている。

 11月3日に那覇泊村の塩田で行われた行事では、花火打ち上げのほか、2人の意見通りに御座楽と路次楽、唐歌の演奏会が開かれた。観覧席は「大小旭章之国旗」とちょうちんで飾られた。御座楽や路次楽の楽器や曲名、歌詞、演奏する楽童子(がくどうじ)の様子も詳しく記録されている。那覇港の薩摩商人の船には「紅旭」の旗、琉球の船は「琉旗」、垣花村の家々は紙に「紅日」を描いて、さおに掲げたとある。

 後田多准教授は、「明治政府が沖縄を天皇制国家に取り込んでいく過程が具体的に分かる」と評価。琉球処分直後の資料は数も少なく貴重だという。「明治政府に弾圧された琉球側が、面従腹背に転換せざるを得なくなった様子も読み取れる」と話した。

 「実記」は5月に同館で開かれる展覧会で公開される予定。

[ことば]琉球処分 明治政府が琉球王国を日本近代国家に強制的に組み入れる一連の政治過程。1872年に琉球王国を琉球藩としたことに始まる。明治政府が清国との関係を断つことなどを迫り、琉球の士族たちは抵抗するが、79年3月に処分官の松田道之が軍隊を引き連れて首里城の明け渡しを迫り、琉球王国は滅び、沖縄県が設置された。この時点を琉球処分と呼ぶことが多い。国王尚泰は東京移住を命じられた。士族たちは琉球を存続させようと策を練った。一部は抵抗して弾圧され、清国に救済を求めて亡命(脱清=だっしん)する人もいた。